この中で実際に勘助殺しに加わっていたのは浅次郎と茂八の二人だけだった。この二人は勘助の妾に顔を見られたのかもしれない。忠次と円蔵は首謀者として手配され、七兵衛は勘助の家の近くに住んでいたので関係ありと見られたのかも知れないが、後の者たちは何の根拠があって手配されたのか分からなかった。しかし、手配されたからには逃げなければならない。捕まってから、言い訳を言っても通じる相手ではなかった。
手配された者たちが逃げ去った後、赤城山中の山狩りが行なわれた。関東取締出役の吉田左五郎は忠次らが潜んでいた岩屋を発見したが、当然、もぬけの空だった。
その後、富塚村の角次郎、上中村の清蔵、桐生町の長五郎、甲斐の新十郎、柴宿の啓蔵、蓮沼村の菊三郎、平塚村の為次、世良田村の伝次、新川(にっかわ)村の秀吉、神谷村の喜代松の十人が追加された。この十人は忠次の代貸たちだった。忠次の勢力を恐れたお上が、勘助殺しを機に国定一家を壊滅させようとたくらんでいるのは明白だった。
勘助殺しの半月後、上州と信州の国境、車坂峠で堀口村の定吉、茂呂村の孫蔵、保泉村の宇之吉の三人と三下奴が一人捕まった。
十月になると保泉村の久次郎、下植木村の浅次郎、茂呂村の茂八、富塚村の角次郎、桐生町の長五郎が捕まり、十一月には日光の円蔵までもが捕まってしまった。
円蔵は勘助殺しに疑問を持っていた。又八の家に手入れのあった前日の八州様の動きを追っていた円蔵は、田部井の佐与松が、木崎宿に隠れていた木島の助次郎と密かに会っていたという情報をつかんだ。勘助の家に出入りしていた佐与松が、又八の賭場に忠次が現れる事を田部井村の旦那衆から聞いて助次郎に知らせ、助次郎が玉村にいた関東取締出役の吉田左五郎にたれこんだに違いないと思った。その事を忠次に知らせたが、すでに、勘助を殺してしまった後だった。忠次としては山狩りの前に決着をつけなければならなかったのだろうが、早まった事をしてしまったと円蔵は悔やんでいた。
一旦、旅に出た円蔵だったが、事の真相を突き止めなければ気が済まないと山伏姿になって上州に舞い戻り、助次郎捜しを始めた。忠次を初めとして大勢の子分たちが国越えして安心した助次郎は木島村に帰っていた。円蔵は助次郎を捕まえて、真相を語らせようとしたが、それが罠(わな)だった。八州様は助次郎を餌(えさ)にして、忠次が現れるのを待ち構えていたのだった。
円蔵は大勢の捕り方に囲まれ御用となった。
助次郎は縄で縛られた円蔵を見下ろしながら、得意顔で大笑いした。
「忠次の野郎、勘助を殺して、いい気になっていやがるが、あん時の立て役者はこの俺様だったんだぜ」
「やはり、おめえだったのかい」と円蔵はふてぶてしく笑った。
「勘助の野郎にゃア、忠次を売るような度胸はねえ。小銭をせびって歩くんが精一杯(せえいっぺえ)だ」
「うちの旦那が怖くて、こそこそ隠れていやがって、おめえが勘助の事を笑えるか、くそったれが」
「うるせえ、黙りやがれ」
助次郎は円蔵を思い切り蹴飛ばした。
円蔵は伊勢崎に連れて行かれ、取り調べを受けてから江戸に送られた。
捕まった円蔵を一目見ようとやじ馬たちが黒山の人だかりとなった。人殺しをしていない円蔵を何とか助けようと福田屋栄次郎や玉村の佐重郎らが嘆願したが効き目はなかった。
吉田左五郎を初めとした八州様も真剣だった。役人たちを総動員して大手配したからには、何が何でも忠次を捕まえなくてはならない。しかし、忠次はどこに隠れたのかまったく分からず、このままでは面目丸つぶれだった。忠次の片腕だった円蔵を捕まえる事ができて、辛うじて面目が保たれたと一安心していた左五郎が円蔵を手放すはずはなかった。
円蔵を初めとして、江戸送りとなった者たちは誰一人として帰って来る事はなく、残酷な拷問(ごうもん)の果てに牢内で死ぬか、首をはねられた。
五月八日、伊与久(いよく)村の源太郎が木島村の助次郎に殺された。
源太郎は今年の正月、忠次が盃をやった子分の中の一人だった。その後、保泉村の久次郎に預けたため、どんな奴だったか忠次には思い出せなかった。
「何で、殺されたんでえ?」
忠次は赤城山中の岩屋の中で、加部安から贈られた洋式の短銃の手入れをしながら、久次郎の話を聞いていた。
「どうも、女がからんでるようです」と久次郎は首をひねった。
「女? 源太が助次の妾にでも手を出したんか?」
「いえ、そうじゃなくて、源太の幼馴染みに伊与久村の名主んとこの姉妹がいるんでさア。伊与久小町って呼ばれる程の器量良しの姉妹でして、姉ちゃんの方はもう嫁に行っちまったんだけど、妹の方がちょっと変わっていて、旦那に興味を持ってるようなんで」
「俺に興味を持ってる?」
「へい、そのようで」
「何を言ってやがんでえ」
「いや、本当なんすよ。旦那の噂を色々と聞いて、憧れてるというか」
「その娘ってえのはいくつなんでえ?」
「十八とか聞きましたが」
「十八の娘っ子が博奕打ちに興味を持つたア面白え世の中になったもんだ」
忠次は短銃を片付けると、煙管に煙草を詰め始めた。
「博奕打ちというよりは、親父に反発してるようです。名主のくせに村人のために何もしねえ親父に比べて、村人たちのために色んな事をしてる旦那の方が偉えと思ってるようですね」
「俺が偉えだと? 偉え奴がお上に追われて、こんなとこに隠れてるか」
「いえ、それが、偉えお人なのにお上に捕まって牢屋に入れられてる人がいるらしいんです。高野長英(ちょうえい)っていうお医者さんでしてね、境の随憲(ずいけん)先生んとこによく来てたらしいんです。その長英先生がその娘のうちにも来たらしくて、色々と影響されたようです。とにかく、頭のいい娘らしいですよ」
「ほお」と言いながら忠次はうまそうに煙を吐いた。
「その長英先生ってえのは、俺も噂を聞いてるぜ。なんでも『夢物語』とかいうのを書いて、それがお上を批判したとか言われて捕まっちまったんだんべえ。日新の奴が偉え先生だって言ってたっけ‥‥‥それで、源太とその娘がどうかしたんか?」
「へい、源太の話によりゃア、ただ、時々、会って旦那の話をしてただけだと。多分、親父が助次に頼んだんじゃねえんですか、源太を娘に近づけるなって」
「それで、助次の奴は源太を殺したんか?」
「殺す気はなかったんでしょう。取っ捕まえて、江戸送りにすりゃア当分は帰って来られねえと思ったんでしょうが、誤って殺しちまったってえとこでしょう」
「助次はどうなったんでえ?」
「一応、押し込めという事に。娘の親父が裏で動いたんでしょう」
「子分を殺されて黙ってるわけにゃアいかねえな」
忠次は久次郎に助次郎を殺せと命じた。ところが、忠次を恐れて、助次郎はどこかに逃げてしまった。助次郎のいなくなった木島村と伊与久村は忠次の縄張りとなった。
金毘羅参りをした後、美濃に戻った忠次は上州無宿の評判が悪い事が気になり、上州無宿を名乗って忠次のもとに集まって来る者たちを子分にした。子分たちに堅気の衆に悪さをするなと命じ、評判の悪い上州無宿がいると聞けば、子分たちを引き連れて、そこに出掛けて行って懲らしめた。勿論、評判の悪い親分たちも退治した。
上州無宿の国次郎と名乗って、美濃の国内を渡り歩いているうちに子分も増え、縄張りもできた。中山道大湫(おおくて)宿(瑞浪市)の六兵衛という落ち目の親分を助けた事から気に入られ、跡目を継ぐ事になった。跡目を継ぐといっても大した縄張りではなく、子分たちを養う事もできなかった。忠次は大湫宿を拠点に縄張りを広げると共に、堅気の衆たちを助けた。日新が円蔵のように軍師の役目を立派にやり、無茶をしようとする忠次を押さえたため、無益な人殺しもせず、捕り方役人たちと面倒を起こす事もなかった。
一年余りを美濃で過ごした忠次は、縄張りを新しく子分になった者たちに任せて、故郷へと向かった。
忠次が田部井村に帰り、留守を守っていた子分やお町と再会を喜んでいると円蔵が百々村から慌ててやって来た。
「旦那、お帰んなさい」
円蔵は息を切らせながら言って、笑った。
「軍師、そんなに慌てて来なくもよお、俺は消えやしねえぜ」
「いや、そうじゃねえんで。まだ、早過ぎるんでさア」
「なに、早過ぎる? 帰(けえ)って来たんが早過ぎるってえのか?」
「そうなんで」と円蔵は手拭いを出して顔の汗を拭いた。
「二年余りも旅して来たんだぜ」
「関所破りが悪かったんでござんすよ。お上を本気で怒らせちまった。旦那が帰って来たってえ噂はもう田部井と国定には広まっちまった。明日には岩鼻にも届くに違えねえ。そうなったら、代官どもは黙っちゃいねえ。八州の旦那を集めて、召し捕りにやって来るぜ」
「くそっ!」
「とにかく、ここにいちゃア危ねえ」
「また、旅に出ろってえのかい?」
「いや。まず、村の衆に旅に出たってえ噂を流して、どこかに隠れる事だ」
「よお、俺んちはどうでえ?」と千代松が円蔵を見た。
「そうだな、五目牛(ごめうし)辺りなら大丈夫(でえじょぶ)かもしれねえ」
忠次は再び、旅支度に身を固め、お町を連れて五目牛村に移った。
文蔵が捕まった事に腹を立て、大戸の関所を破ってしまったため、一年位では帰れないだろうと覚悟を決め、遠くまで足を伸ばすつもりでいた。
信州に入った忠次はいつものように権堂村に向かった。源七親分の跡を継いで女郎屋をやっている島田屋伊伝次のもとに草鞋を脱ぎ、上州の様子を探った。
文蔵の事が心配で居ても立ってもいられなかったが、子分たちが文蔵を助け出したという朗報は伝わって来なかった。野沢の湯に腰を落ち着けて、朗報を待とうとも思ったが、お滝に文蔵が捕まった事を知らせる事はできなかった。
そのうちに、中野の代官所に忠次の人相書が回ったため、甲州(山梨県)へと旅立った。
人相書には四年前の伊三郎殺しと、文蔵を取り戻すために徒党を組んで騒ぎを起こした件は書いてあったが、関所破りの事は触れられていなかった。江戸から巡見使が来るため、関所破りの件は岩鼻の代官が隠したのかもしれない。そのまま、隠し通してくれる事を忠次たちは願った。
甲州へ向かう前に、忠次は松本の勝太郎の所に顔を出した。勝太郎は忠次を歓迎し、ニコニコしながら円蔵とおりんの事をしきりに聞きたがった。四年前とは打って変わった待遇に忠次は充分に満足した。
甲州に入ると甲府柳町の卯吉(うきち)の所に草鞋を脱いだ。
卯吉親分とは初対面だったが、忠次の噂は聞いていると丁寧に持て成してくれた。忠次が来たとの知らせを聞いて、津向(つむぎ)村から文吉がやって来た。文吉も一家を張ったというので、そちらに移る事にした。
甲州には長老として柳町の卯吉親分と下吉田村の長兵衛親分がいて、対立しているという。玉村の京蔵は長兵衛の客人として、しばらく滞在していたが、今は富士山に登る参拝客相手に旅籠屋をやっているとの事だった。
「ほう、すると、奴はこっちに腰を落ち着けたってえわけかい?」
「らしいぜ。俺は直接会った事アねえが、噂によりゃア野郎は親分てえ器じゃねえ。故郷(くに)にいた頃は、大(てえ)した親分だったってえ親父の影に脅えてたんじゃねえんか。故郷を離れ、親父の影も消えて、今はのんびり旅籠屋のおやじを楽しんでるようずら」
「俺も奴には会った事もねえが、そんな男だったんかい」
「親父が立派な博奕打ちでも、その伜が立派な博奕打ちになるとは限らねえってこんだ。野郎は二度と上州にゃア戻るめえ。京蔵の事ア忘れるこんだな」
「ああ、そうするぜ。奴がこっちの連中を引き連れて、殴り込みを掛ける事もなさそうだ。これで安心して旅が続けられるぜ」
津向の文吉のもとを後にした忠次一行は駿河に入り、安東村(静岡市)の文吉のもとに草鞋を脱いだ。
安東村は駿府(すんぷ)の郊外にあり、賑やかな浅間(せんげん)神社の門前町も近かった。門前町には女郎屋が建ち並び、賭場も開かれ、遊び場には事欠かなかった。さらに、西のはずれの阿部川町には『二丁町』と呼ばれる有名な遊郭まであった。江戸の吉原には及ばないが、木崎や玉村の飯盛女しか知らない忠次たちにとっては、まるで極楽のような世界だった。
海も近くにあった。忠次は以前、越後で冬の海を見た事があったが、ここの海はあの時の海とはまったく違っていた。冬の海は荒れて、波しぶきを上げて唸っていたが、ここの海は波も穏やかでキラキラと輝いている。初めて、海を見た秀吉、鹿安、相吉の三人は、凄えと叫びながら、いつまでも海を眺めていた。
新鮮な魚介類が豊富なので、それらをつまみながら飲む酒は格別だった。山国の上州で育った忠次たちは駿府が気に入り、しばらく、滞在する事に決めた。草鞋銭も心細くなって来たし、向こうの状況も聞きたいので、赤堀の相吉を上州に帰した。
世良田の祇園祭りの終わった頃、突然、百々村にやって来て、忠次の子分にしてくれと言い出した。見た所、年は二十二、三で渡世人には見えなかった。円蔵が話を聞いたが太田宿の生まれというだけで、今まで何をやっていたのか話したがらない。何となく、ただ者ではないと感じた円蔵は日新を三下奴にして様子を見る事にした。
普通、三下奴は十六、七の若者が多かった。子分とは認められず、朝早くから夜遅くまで雑用にこき使われた。何を命じられても、逆らわずに従わなければならない。飯だけは食わせて貰えるが、銭は貰えず、厳しい修行だった。
日新は年を食っていたが文句も言わず、自分より若い子分たちにこき使われた。返事をする以外、滅多に口も利かず、何を言われても怒る事はなかった。半年余りが経つと、三下奴でありながら、子分たちから先生と呼ばれるようになった。読み書きができ、色々な事を知っているので、子分たちは日新に手紙の代筆を頼んだり、悩み事の相談をしたりするようになった。
忠次もその噂を耳にして、百々村に行った時、円蔵に聞いた。
「軍師、日新とかいう三下だがな、ありゃ一体(いってえ)、何者なんでえ?」
「あいつか、ありゃどうも学者崩れのようだな」と円蔵はお茶を一口飲むと目を細めて言った。
「学者崩れ? お上(かみ)の回し者(もん)じゃアねえだんべえな?」
「そいつは大丈夫(でえじょぶ)だ。あっしもその事が心配(しんぺえ)で様子を見てみた。しかし、そんな素振りは見せねえ。逆に御用聞きを恐れてるような風がある。もしかしたら、何か凶状を持ってんのかもしれねえ」
「奴が凶状持ちだと? へっ、そうは見えねえぜ」
忠次も熱いお茶をすすった。
「なあに、凶状持ちといっても殺しやなんかじゃねえ。あっしが思うにゃア、お上に楯突いたんじゃねえかと‥‥‥」
「あの野郎がお上に楯突いた? 一体、何をしたんでえ?」
「去年の二月だったか、上方の大坂で大塩平八郎がお上の御政道に楯突いて反乱を起こしたってえのを旦那も御存じだんべえ」
「ああ。飢饉の時だったからな、あっちこっちで騒ぎが起こったが、与力の旦那が一揆を起こして大坂の町を焼き払ったってえ、大(てえ)した評判になったなア」
「へい。その後、大塩の残党と名乗る奴らが、あちこちで一揆を起こしたんだが、越後の柏崎でもそんな騒ぎがあった」
「おう、聞いてるぜ。代官の陣屋に殴り込みを掛けたんだんべえ。何でも、その張本人は上州生まれの浪人だったってえじゃねえか」
「そうなんでえ。あの事件を間近で見たってえ旅人(たびにん)が、うちに草鞋(わらじ)を脱いだんで、あっしは聞いてみたんでさア。その張本人は生田万(よろず)ってえ先生で、館林のお侍(さむれえ)だったんだが、何でも、お殿様に御政道に関する意見書を提出して、お殿様の怒りを買って浪人になったんだそうだ。その後、江戸に出て、偉え先生のもとで勉学に励み、上州に戻ると太田宿に私塾を開いて、若え者たちに学問を教えてたらしいぜ」
「太田宿でか?」
「そうなんだ。日新の野郎も太田の生まれだ。どうも、その生田先生の教え子だったようだな」
「聞いてみたかい?」
「いや、本人がしゃべりたがらねえのに聞いても話すめえと思ってな。まだ、聞いちゃいねえ」
「すると、奴も越後に行って、陣屋を襲撃したってえのかい?」
「その可能性はある。奴がここに来たんは、越後の襲撃から一月も経っちゃアいねえ」
「ほう、面白え奴が転がり込んで来やがった」
「本人に会ってみますかい?」
「そうだな、呼んでくれい」
忠次は子分たちを集め、新築祝いを行なった。その日は生憎の雨降りだったが、縄張り内の旦那衆が大勢集まって来た。近所の女衆たちも手伝ってくれ、祭りさながらの賑やかさだった。
お町はニコニコしながら忠次を連れて家の中を見て回り、新しい鏡台や化粧道具、衣桁(いこう)に飾られた半四郎鹿(か)の子の小袖を嬉しそうに披露した。長火鉢に煙草盆、布団に夜着(よぎ)、行灯(あんどん)に蚊帳(かや)、食器類から洗濯道具まで、何から何まで揃っていた。それらの家具は縄張り内の旦那衆や子分たちから贈られた物だった。
「凄いわ、夢みたい」
お町は嬉しそうに忠次に抱き着いた。
忠次は田部井村に移ると『百々一家』から『国定一家』と名を改めた。
百々村の家は文蔵とお辰夫婦に任せる事にした。軍師の円蔵がおりんと一緒に境宿に住んでいるので、忠次としても安心だった。そして、国定村には清五郎、田部井村には佐与松、曲沢村には富五郎、五目牛村には千代松を代貸として置き、それぞれ、子分を持つ事を許した。
境宿の市日の賭場は文蔵、神崎の友五郎、甲斐の新十郎の三人を代貸とし、例幣使(れいへいし)街道に沿って柴宿には啓蔵、堀口村には佐助、馬見塚村には佐太郎、蓮沼村には菊三郎、武士村には山王道の民五郎を代貸として置き、その他、韮塚村に梅次、保泉村に久次郎、茂呂村に孫蔵を置いた。田部井村と境宿のほぼ中央の八寸村には子分ではないが、忠次に忠実な叔父御、七兵衛がいた。
さらに、今年になって平塚の助八が忠次の勢力を恐れて、傘下に入れてくれと言って来た。助八が忠次になびくと、世良田の茂吉も頭を下げて来た。何もかもが順調に進み、忠次としては笑いが止まらない程だった。忠次は助八の代貸で中島を仕切っていた為次を助八と切り離して、中島を任せ、助八には平塚だけを任せる事にした。世良田の茂吉はそのまま、忠次の代貸となった。
忠次は十八人の代貸を持つ大親分となり、田部井村から睨みを利かせていた。
その頃、忠次は子分たちが自分の事を『親分』と呼ぶのを禁止し、『旦那』と呼ばせる事にした。それは高萩の万次郎に会った時から考えていた事だったが、なかなか言い出す機会がなかった。国定一家と名称を変えたのを機に子分たちに命じる事にした。
忠次が新居に移った頃より、毎日雨降りが続いた。すぐにやむだろうと誰もが思っていたが、その雨はやむ事なく降り続いた。夏になっても暑くはならず、袷(あわせ)を脱ぐ事ができなかった。それでも、雨の中、世良田の祇園祭りは盛大に行なわれ、忠次が祭礼賭博を仕切って、上州一円の親分衆を集めた。
各地で天気祭りが行なわれたが、雨は一向にやまず、稲の穂は出揃わず、米の相場は急速に上がって行った。四月に金一両で六斗五升の米が買えたのが、七月になると四斗しか買う事ができなくなった。米の値上がりは境の絹市にも影響し始め、取り引きに訪れる客の数も少しづつ減って行った。
大雨で利根川を初めとした河川は氾濫(はんらん)し、中島、平塚、島村などの河岸(かし)は大損害を被(こうむ)った。