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2024.04.29 -
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17 死ぬ時くれえ、てめえの名前を名乗りやがれ

2008.09.30 - 侠客国定忠次一代記

 忠次の今回の旅は、玉村の八幡宮の祭りに来てくれた親分衆を訪ねる旅となった。

 文蔵が捕まった事に腹を立て、大戸の関所を破ってしまったため、一年位では帰れないだろうと覚悟を決め、遠くまで足を伸ばすつもりでいた。

 信州に入った忠次はいつものように権堂村に向かった。源七親分の跡を継いで女郎屋をやっている島田屋伊伝次のもとに草鞋を脱ぎ、上州の様子を探った。

 文蔵の事が心配で居ても立ってもいられなかったが、子分たちが文蔵を助け出したという朗報は伝わって来なかった。野沢の湯に腰を落ち着けて、朗報を待とうとも思ったが、お滝に文蔵が捕まった事を知らせる事はできなかった。

 そのうちに、中野の代官所に忠次の人相書が回ったため、甲州(山梨県)へと旅立った。

 人相書には四年前の伊三郎殺しと、文蔵を取り戻すために徒党を組んで騒ぎを起こした件は書いてあったが、関所破りの事は触れられていなかった。江戸から巡見使が来るため、関所破りの件は岩鼻の代官が隠したのかもしれない。そのまま、隠し通してくれる事を忠次たちは願った。

 甲州へ向かう前に、忠次は松本の勝太郎の所に顔を出した。勝太郎は忠次を歓迎し、ニコニコしながら円蔵とおりんの事をしきりに聞きたがった。四年前とは打って変わった待遇に忠次は充分に満足した。

 甲州に入ると甲府柳町の卯吉(うきち)の所に草鞋を脱いだ。

 卯吉親分とは初対面だったが、忠次の噂は聞いていると丁寧に持て成してくれた。忠次が来たとの知らせを聞いて、津向(つむぎ)村から文吉がやって来た。文吉も一家を張ったというので、そちらに移る事にした。

 甲州には長老として柳町の卯吉親分と下吉田村の長兵衛親分がいて、対立しているという。玉村の京蔵は長兵衛の客人として、しばらく滞在していたが、今は富士山に登る参拝客相手に旅籠屋をやっているとの事だった。

「ほう、すると、奴はこっちに腰を落ち着けたってえわけかい?」

「らしいぜ。俺は直接会った事アねえが、噂によりゃア野郎は親分てえ器じゃねえ。故郷(くに)にいた頃は、大(てえ)した親分だったってえ親父の影に脅えてたんじゃねえんか。故郷を離れ、親父の影も消えて、今はのんびり旅籠屋のおやじを楽しんでるようずら」

「俺も奴には会った事もねえが、そんな男だったんかい」

「親父が立派な博奕打ちでも、その伜が立派な博奕打ちになるとは限らねえってこんだ。野郎は二度と上州にゃア戻るめえ。京蔵の事ア忘れるこんだな」

「ああ、そうするぜ。奴がこっちの連中を引き連れて、殴り込みを掛ける事もなさそうだ。これで安心して旅が続けられるぜ」

 津向の文吉のもとを後にした忠次一行は駿河に入り、安東村(静岡市)の文吉のもとに草鞋を脱いだ。

 安東村は駿府(すんぷ)の郊外にあり、賑やかな浅間(せんげん)神社の門前町も近かった。門前町には女郎屋が建ち並び、賭場も開かれ、遊び場には事欠かなかった。さらに、西のはずれの阿部川町には『二丁町』と呼ばれる有名な遊郭まであった。江戸の吉原には及ばないが、木崎や玉村の飯盛女しか知らない忠次たちにとっては、まるで極楽のような世界だった。

 海も近くにあった。忠次は以前、越後で冬の海を見た事があったが、ここの海はあの時の海とはまったく違っていた。冬の海は荒れて、波しぶきを上げて唸っていたが、ここの海は波も穏やかでキラキラと輝いている。初めて、海を見た秀吉、鹿安、相吉の三人は、凄えと叫びながら、いつまでも海を眺めていた。

 新鮮な魚介類が豊富なので、それらをつまみながら飲む酒は格別だった。山国の上州で育った忠次たちは駿府が気に入り、しばらく、滞在する事に決めた。草鞋銭も心細くなって来たし、向こうの状況も聞きたいので、赤堀の相吉を上州に帰した。

 半月後、相吉は戻って来た。忠次は相吉が文蔵を一緒に連れて来る事を願っていたが、そううまくは行かなかった。

 富五郎たちは文蔵を取り戻す事に失敗してしまったという。

 関東取締出役の吉田左五郎は忠次たちの襲撃を恐れて、木崎宿でろくな取り調べもせず、捕らえた翌日の朝早く、文蔵を江戸へと送った。しかも、中山道を通らず、脇道を通って江戸に向かった。富五郎たちは文蔵の唐丸籠(とうまるかご)が来るのをあちこちで待ち伏せしたが、ついに会う事はできなかった。

 文蔵は江戸の小伝馬町の牢(ろう)に入れられ、残酷な拷問を受けながらも、伊三郎殺しの罪を一人でかぶった。そして、六月の二十九日、妹のおやすが差し入れた白無垢(むく)を着て首を斬られ、その首は小塚原(こづかっぱら)に三日間、晒された。文蔵はまだ三十歳だった。

 忠次は相吉の話を聞きながら、歯を食いしばり、両手を強く握り締めていた。

 あの文蔵が殺されちまったなんて信じられなかった。

 文蔵が一体(いってえ)、何をしたって言うんでえ‥‥

 汚ねえ真似しやがって‥‥‥

「馬鹿野郎!」と大声で叫びながら大暴れしたい心境だったが、忠次はグッと堪(こら)えていた。

 安五郎、日新、鹿安の三人はうなだれ、秀吉はすすり泣いていた。秀吉は三下の頃から文蔵に可愛がられ、文蔵が育てた子分だった。

「くそったれ!‥‥‥それで、文蔵を捕まえた裏切り野郎は殺(や)ったんだんべえな?」

「へい。世良田の茂吉の首は取ったそうです」

 茂吉は忠次の仕返しを恐れて、常に子分たちを回りに置き、決して一人になる事はなかった。何度も木崎宿の左三郎のもとに出向いて、助けを求めていた。左三郎は子分たちを世良田に送り込み、茂吉を助ける見返りに朝日屋の賭場を貰い受けた。友五郎、才市、清蔵の三人は子分たちを世良田に潜入させ、じっと機会を待っていた。

 四月の初めの日光の例祭へ向かう例幣使や公家衆の通行も終わり、十七日には幕府から派遣された御領所巡見使がやって来て伊勢崎に泊まった。百人近くを従えた一向は仰々しく村々を見て回り、国定村で昼食を取り、大間々方面へと向かった。

 八州様の道案内となった茂吉は巡見使の先触れとして忙しく働き回り、忠次の子分たちに狙われている事も忘れて、巡見使一行が上州から出て行ってしまうと、ホッと一息ついた。文蔵が捕まってから一月が過ぎ、安心した茂吉は御無沙汰だった妾の家に顔を出した。それが運の尽きとなり、茂吉は殺された。しかし、才市が逃げ遅れて捕まってしまい、半殺しにされた上、江戸送りとなった。才市も文蔵に次いで、小塚原で晒し首にされた。

「才市の兄貴まで‥‥‥」

 じっと悲しみに耐えていた秀吉は泣きながら部屋から飛び出して行った。

「兄貴‥‥‥」

 鹿安までが泣き始めた。鹿安は才市から鉄砲を習っていた。

 茂吉を殺した友五郎と清蔵はそのまま旅に出たが、顔を見られてしまった友五郎は手配されてしまった。さらに、巡見使がいなくなった後、大戸の関所を破った忠次の噂が徐々に広まって行った。噂はだんだんと大きくなり、百々村に来る頃には忠次が鉄砲や槍を持った子分を二十人余りも引き連れて、堂々と関所を破って行ったという風になっていた。

 噂を聞いた円蔵たちは驚き、うろたえたが、代官所からは何も言って来ないのでデマに違いないと問題にはしなかった。ところが、噂を聞いて慌てたのか、翌日になって、忠次が関所破りで大手配になったと玉村の佐重郎が知らせてくれた。今までの手配は関東取締出役の取締り範囲内だったが、今度は全国に指名手配される事となってしまった。

 安東の文吉の調べで、駿府にも忠次の人相書が届いている事を知ると忠次たちは賭場に出入りするのはやめ、派手に遊ぶ事も控えた。二ケ月間、滞在した駿府を後にした忠次たちは遠州浜松に行き、栗ケ浜の半兵衛のもとに草鞋を脱いだ。

 六年前に武士村の惣次郎を殺して国越えした半兵衛は伊勢崎に帰らず、浜松で一家を張っていた。半兵衛は伊勢崎藩の十手持ちだったし、殺した相手は博奕打ちだったので、普通なら二年も経てば、ほとぼりも冷め伊勢崎に帰れるはずだった。ところが、半兵衛が国越えしている間、留守を守っていた代貸の重太郎が木島の助次郎の子分を殺して、浜松に逃げて来た。半兵衛と重太郎がいなくなり、伊勢崎のシマは助次郎に奪われた。もう故郷には帰れないと覚悟を決めた半兵衛は浜松に一家を張って落ち着く事にした。

 翌年、忠次が伊三郎を殺したため、後ろ盾を失った助次郎は半兵衛の子分たちに伊勢崎から追い出された。お陰で、故郷に帰れる身となったが、浜松が気に入った半兵衛は帰ろうとはしなかった。今では栗ケ浜の半兵衛の名は東海道筋の親分衆の間に知れ渡っていた。

 半兵衛は懐かしそうに忠次を迎えた。異郷の地で同郷の者に会うのは何となく安心するものだった。お互いに積もる話もあり、忠次は浜松でのんびり過ごした。ところが、浜松にとんでもない噂が流れて来た。上州無宿、国定村の忠次郎が紀州で捕まったという。半兵衛も驚き、情報を集めてくれたが、遠い紀州の事は分からなかった。

 その後、大前田栄五郎の兄弟分である尾張名古屋の久六の所に草鞋を脱いだ時、忠次を名乗っていたのが、神崎の友五郎だった事が分かった。

 久六は尾張藩から十手を預かっているので、忠次が捕まったと聞くと、真相を確かめるため紀州まで出掛けて行った。忠次の顔を知っていると言うと、役人たちは久六を牢内にいる忠次に会わせた。そこでようやく、捕まったのが忠次ではなく、子分の友五郎だという事が分かった。

 友五郎と清蔵は紀州に行く前に、久六のもとに草鞋を脱いでいた。久六は伊勢の新茶屋村の勇蔵を紹介して送り出した。捕まる二ケ月前の事だという。久六は何とかして友五郎を助け出そうと手を打ったが、友五郎の手配書が関東より送られて来たため、どうする事もできず、晒し首にされてしまった。

「なんで、親分の名をかたったんだと聞いたらな、奴は間違えられたんを幸いに親分に成り代わって自分が首を斬られりゃア、親分が助かるだろうと思って、嘘を付き通したと言ったぜ」

「馬鹿な奴だ‥‥‥死ぬ時くれえ、てめえの名前(なめえ)を名乗りやがれ」

 忠次はそう言ったが、その目は涙で潤んでいた。

「大(てえ)した子分だぎゃア。俺の子分にゃアあれ程の男はいねえ。子分にそれ程まで思われて、おめえさんは幸せ者だでえ」

「でもよお、友五郎の兄貴はどうして、旦那に間違われたんだんべえ」

 秀吉が涙を拭きながら、不思議そうに言った。

「どう見ても、似とらんなア」と久六も同意した。

「人相書なんて当てにはなりませんよ」

 日新が冷静な顔をして言った。

「友五郎の兄貴が何と名乗っていたか知りませんけど、旅をして回った者なら兄貴の言葉が上州弁だってすぐに分かります。兄貴も結構、貫録がありますからね、貫録のある上州訛(なま)りの親分さんが紀州辺りまで来てるとなれば、凶状旅に違えねえって誰もが思います。兄貴の事だから、賭場に出入りして派手に遊んでたんでしょう。ただ者じゃねえって噂が立ち、そこへ旦那の手配書が回った。怪しい奴はしょっ引けという事になって、兄貴は捕まっちまった。お前は国定村の忠次郎だなと問われて、兄貴はためらう事なく、うなづいたんでしょう」

「確かに奴の言葉は上州弁丸出しだ。生まれは下総なんだが、上州に来て長えからな」

「成程ねえ、まさしく、そうに違えねえわ」と久六は感心しながら日新を見ていた。

「清蔵の兄貴は無事なんだんべえか?」

 鹿安が心配そうに聞いた。

「そいつは大丈夫だ」と久六が答えた。

「清蔵は今頃、上州に帰ってるはずだ。手配書によると、世良田村の道案内を殺したんは八寸の才市と神崎の友五郎の二人になってる。奴は手配されとらんから上州に帰してやったでよ」

「そいつはよかった。親分さん、色々と世話を掛けちまってすまなかった」

「なあに、うちの若え者も上州で世話になってるからお互(たげ)え様よ」

 その年、忠次は三ツ木の文蔵、八寸の才市、神崎の友五郎と三人の代貸を失ってしまった。怒りと悲しみが込み上げて来たが、それをぶつける対象がなかった。忠次は酒に飲みながら、何に対して怒ったらいいのか、日新に答えを求めて質問した。

「あいつらの仇を討つにゃア、誰をたたっ斬りゃアいいんでえ?」

「誰と言われても‥‥‥」

「おめえにも分かんねえんかい?」

「八州様やお代官を斬ったところで、どうにもなりません。もっと根本的な所を何とかしねえと‥‥‥」

「根本的なとこってえのはお上の事かい?」

「お上が考え方を改めて、新しい世の中を作ってくれればいいんです」

「へっ、おめえは何かってえと新しい世の中がどうのこうのと言いやがるが、その新しい世の中ってえのは、一体、どんな世の中なんでえ?」

「無用な侍なんかいねえ世の中です。侍の仕事は戦(いくさ)をする事です。戦なんかねえ今の世に、どうして侍がいる必要あるんです? 用のねえ侍たちのために、どうして高え年貢を払わなけりゃならねえんです? 生田先生は館林の松平家の財政を立て直すには、用のねえ侍たちに新田を開墾(かいこん)させるべきだと意見書を出して、お殿様の怒りに触れ、浪人となってしまったんです。でも、先生のおっしゃった事は正しいと思います。何もしねえで威張ってる侍なんか、本当に無用なものです」

「侍(さむれえ)がいなくなりゃア、確かに住みいい世の中になるかもしれねえ。しかしよお、そんな事が実際にできると思ってんのか?」

「難しいと思います。でも、いつかは誰かがやらなければならねえんです」

「そんなど偉え事を誰がどうやってやるんでえ?」

「それは分かりません。大坂の大塩平八郎のようにお上のお役人が騒ぎを起こすかもしれません。お百姓たちが大規模な一揆を起こすかもしれません。今回、旦那と一緒に旅をして、わたしは博奕打ちの親分さんがどこにでもいる事を知って驚きました。お上が禁止してる博奕を渡世にしている親分たちがどこにでもいるなんて、噂には聞いていましたが、実際に会ってみて本当に驚いてます。しかも、その親分たちは旅人たちによって、色々な情報をつかみ、しっかりとした横のつながりを持っています。もし、博奕打ちたちが一斉に蜂起したら、世の中が引っ繰り返るかもしれません。でも、お上はその事を充分に知っています。だから、道案内というお上の手先を博奕打ちにさせて、博奕打ち同士が争うように仕向けてるんです」

「博奕打ちが一斉に蜂起するだと‥‥‥面白え事を考(かんげ)えるじゃねえか」

「できない事じゃありませんよ。親分たちは皆、縄張りを持ってます。そして、縄張り内の堅気の衆を大切にしています。戦国の世の武将たちと同じです。皆、縄張りを広げるために喧嘩して、大きな縄張りを持っていれば、大親分と呼ばれます。もし、旦那が上州一国を手に入れたら、上州中の堅気の衆の面倒を見る事でしょう」

「何を言ってやがる。そんな事ア無理だ」

「もしもの話です。もし、そうなったら、旦那は絶対に堅気の衆の面倒を見て、飢饉になっても餓死者が一人も出ないようにするでしょう」

「そりゃア、ちっと難しいってもんだぜ」

「難しくても、旦那ならやるはずです。子分たちも旦那の手足になって働くでしょう。そうなりゃ、高え年貢だけ取って何もしねえ領主なんか用はなくなります。侍たちをみんな追い出しゃア、今よりはずっとましな世の中になるはずです」

「馬鹿な事べえ言うな。侍相手に喧嘩なんかできるか‥‥‥しかしまあ、よくそんな途方もねえ事を考えるな。おめえの話を聞いてると何か、こう、すっきりするぜ」

 忠次は日新の話を本気にはしなかったが、この際、各地の親分たちと近づきになっておくのも、今後のためにいいだろうと思った。

 名古屋を後にした忠次たちは美濃へと向かった。岐阜の弥太郎のもとに立ち寄った時、ちょっとした出入り騒ぎがあった。忠次たちも助っ人として出向いたが、仲裁が入って、喧嘩にはならずに済んだ。

「すまなかったなア。おめえさんがいてくれたもんで、向こうも恐れをなして仲裁を頼んだに違えねえや」

 弥太郎は酒を振る舞いながら、嬉しそうに言った。

「そんな事アねえでしょう。あっしら六人が助っ人したくれえで情勢が変わるとは思えません。親分さんの勢いに恐れをなしたんでしょう」

「いや、そうじゃねえんだ。上州無宿と聞いただけで、この辺りの連中は恐れるんだ。おめえさんにゃア悪いが、上州無宿は何をするか分かんねえって評判が立っていてなア、しかも、おめえさんは上州無宿でも名が売れてるもんやで、向こうが恐れんのも無理アねえ」

「上州無宿の評判はそんなに悪(わり)いんですか?」

「悪いってんじゃねえんだ。上州無宿はこの渡世じゃ一目(いちもく)置かれてるんだよ。合の川の政五郎(上総屋源七)親分とか、大前田の栄五郎親分とか、名の売れた大親分が多いからな。最近は上州生まれでねえ者まで、箔(はく)が付くってえんで上州無宿を名乗っていやがる。そんな連中が悪さをするもんで、上州無宿と聞きゃア恐れをなすようになっちまったのよ」

「偽者の上州無宿が出回ってるんですか?」

「濃州無宿よりゃア上州無宿の方が聞こえがいいもんでな。美濃の連中まで、上州無宿を名乗ってる始末だ」

 忠次は岐阜に滞在して、弥太郎の言っていた事が本当だという事を知った。上州無宿と名乗る旅人がやたらと弥太郎のもとに草鞋を脱いだ。そして、忠次がいる事を知ると皆、頭を下げ、上州無宿でない事を告げて盃を欲しがった。忠次は急ぎの旅だから盃はやれないと断った。

 忠次は賭場に顔を出すのは控えていたが、手配されていない子分たちが賭場に顔を出して、上州無宿だと名乗ると賭場の雰囲気が急に変わった。まるで、賭場荒らしが来たかのように警戒する。弥太郎は一目置かれていると言ったが、実際、上州無宿の評判は悪かった。

「これじゃア、本物の上州無宿まで、悪く思われますぜ」と秀吉は忠次に訴えた。

「何とかしなくちゃなんねえな。このまま、放っておいたら、大前田の叔父御や源七親分の評判まで、がた落ちになっちまう」

「旦那、上州無宿をかたる偽者は片っ端からたたっ斬りますか?」と安五郎は意気込んだ。

「馬鹿言うねえ。上州無宿を名乗った奴らがみんな殺されちまったら、上州無宿は情けねえ野郎ばかりだと思われるぜ」

「そうか、そいつはうまくねえ」

「世直しをやればいいんです」と日新が言った。

「また、おめえの世直しが出たな」

「上州無宿が貧しい人たちを助けてやれば、評判は上がります」

「弥太郎親分のシマでそんな勝手な真似はできねえよ」

「それじゃア、ここを出て貧しい村に行けばいいんです」

「人助けったってえなア、そう簡単にできるもんじゃねえ。飢饉も落ち着いて来たしな、見ず知らずの村でそんな事アできねえよ」

 日新は上州人のためにも人助けをすべきだと主張したが、忠次は取り合わなかった。

 そろそろ、岐阜を去ろうとした時、

「ここまで来たんだから、もう少し足を伸ばして、四国の金毘羅(こんぴら)さんをお参りして行けばいい」と弥太郎は言った。

 金毘羅さんの門前の琴平(ことひら)は歓楽街として有名で、博奕も盛んだという。旅に出た親分たちは必ず、金毘羅参りをする。博奕打ちの間では、金毘羅さんは博奕の神様と言われ、一家を張ってる貸元なら、一度はお参りするべきだと勧められた。弥太郎が子分を代参として金毘羅さんに送るというので、忠次たちも一緒に行く事にした。

「金毘羅さんの近くに加賀屋長次郎ってえ変わった野郎がいる。まだ若えが旅人たちの面倒見がいいって評判だア。そいつがなかなかの学者でな、日新と気が合うかもしれねえ」

 弥太郎がそう言うと、金毘羅参りよりも人助けの方が大事だとふくれていた日新の機嫌も直り、一行は讃岐(さぬき)の国(香川県)へと向かって行った。

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