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嘉永(かえい)三年(一八五〇)十二月二十一日、上州(群馬県)吾妻郡(あがつまごおり)、信州街道の大戸宿(おおどじゅく)は朝早くから祭りさながらの賑やかさだった。
その日は粉雪がちらつき、凍るような寒さだった。
にもかかわらず、各地から人々が集まり、これから始まる見世物(みせもの)をそれぞれの人がそれぞれの思いで見守ろうとしていた。
萩生(はぎう)村の農家から出て来た旅の商人(あきんど)が街道を眺めて目を丸くした。
「ほう、こりゃ凄(すげ)えのう。まるで、蟻の行列のようじゃ。ほんま、大したもんや」
独り言をつぶやくと商人は菅笠をかぶり、荷物を背負って、その流れの中に入って行った。
目の前に女連れの一行がいた。
おこそ頭巾をかぶった後ろ姿がなかなか色っぽい年増(としま)女が二人と四十年配の男が三人、遠くからやって来たような旅支度で、皆、無言のまま歩いている。
回りを見回すと女連れの者が結構、多いのに商人は驚いた。
これから始まる見世物は女子供が好んで見るような代物(しろもの)ではないはずだったが‥‥‥
商人は商人特有の愛想笑いを浮かべると、前を行く一行に声を掛けた。
「えらい人出でございますなア」
二人の女と一人の男が振り返って、商人の顔を見た。
二人の女は確かに色っぽかったが、年増というよりは中年に差しかかっていた。二人共、粋(いき)な身なりで料理茶屋の女将(おかみ)という感じだった。
女たちは商人の顔をチラッと見ただけで何も言わなかったが、頬(ほお)っ被りして荷物をかついでいる男は商人にうなづき、「はい。まったく、凄いですなア」と答えてくれた。
商人は軽く腰を屈め、「あたしは近江(おおみ)(滋賀県)から来た橘屋(たちばなや)という商人でございます」と名乗った。
「境の絹市で噂を聞きまして、土産(みやげ)話にちょいと覗いて行こうと思い、こうして、やって参りました。まさか、これ程の賑わいとは思ってもおりませんでしたわ」
「近江からいらしたんですか、それはそれは‥‥‥わたし共は信州(長野県)からです」
男は人懐っこい顔をして、橘屋と並んで歩いた。丁度いい話相手が見つかって、ホッとしたという顔付きだった。
「信州? あれ、方向違いのような‥‥‥」
橘屋は首を少し傾げた。
「はい。昨夜(ゆうべ)、大戸に着いたんですが、宿屋が一杯で泊まる所がございません。仕方なく、萩生まで行って、何とか泊まる事ができたという次第なんです」
「そうでしたか。信州から、わざわざいらしたんですね?」
「勿論ですとも。まさか、親分さんがこんな事になろうとは‥‥‥失礼ですが、親分さんの噂は近江の方にも聞こえておりますか?」
「はい、それはもう聞こえとりますとも。あたし共は上州と江州(ごうしゅう)を行ったり来たりしとりますんで、親分さんの噂は上州の話をする度に話題に上ります。ただ、噂ばかりで実際に会った者はおりまへんし、渡世人の世界の事はあたし共にはよく分かりまへん。いい加減な噂ばかりでございますよ」
「あのう、いい加減な噂とはどんな噂なんです?」と橘屋の前を歩いていた女が急に振り返った。
「はい、まったくいい加減な噂なんです」と橘屋は言ったが、もう一人の女も興味深そうな顔をして、噂の内容を聞きたがった。
「本当かどうかは存じまへんが、親分さんが悪いお代官様を斬ったとか、天保(てんぽう)の飢饉(ききん)の時、お百姓たちにお米や銭をばらまいて救ったとか、いい噂もあれば、若い娘をかどわかして女郎屋に売り飛ばしたとか、赤城山(あかぎやま)に隠れてて、夜になると村々に出て来て、手当たり次第に娘たちを手籠めにしたり、銭を盗んだとか‥‥‥」
「何ですって、誰がそんなひどい噂を‥‥‥」
女たちは口惜しそうに唇を噛んだ。
連れの男たちも信じられないというような顔付きで橘屋を見ていた。みんな、悪い方の噂に対して、親分さんがそんな事をするはずはないと信じているようだった。
「はい、まったくいい加減な噂なんです」と橘屋は大袈裟に手を振った。
「そんな、ひどすぎます」
二人の女は顔を見合わせて顔をしかめた。
「はい、ひどい噂です‥‥‥あたしには親分さんがどんなお人なのか、まったく見当も付きません。今回、境に行ったら、親分さんの噂で持ち切りで、あたしも気になって色んな人に聞いてみました。それでもやっぱり、よく分かりませんでした。親分さんの地元でも、親分さんを良く言う人もおりますし、悪く言う人もおります。どっちの言い分が正しいのか、あたしにはさっぱり分かりません。そこで、実際の親分さんを一目、見てみようと思いまして、こうして、やって来たわけなんですわ」
「そうでしたか」と女の一人が言った。
「親分さんは立派なお人ですよ。ねえ、お篠さん」
お篠と呼ばれた女はうなづいたが、顔付きは暗かった。
「親分さんの最期を見守るために、これだけ大勢の人が集まるんです。親分さんが悪人だったら、こんなに人が集まるはずありません。親分さんは絶対に立派な人なんです」
女はお篠に言い聞かせるようにしゃべっていた。
「確かに」と橘屋は二人の女にうなづき、回りを見回した。
人々の顔は、ただのやじ馬ではなかった。それぞれが親分さんに対する思いを抱きながら歩いているように見えた。
赤城山(あかぎやま)に春霞(がすみ)が掛かっていた。
裾野の長い赤城山の手前には広々とした平野が広がっている。しかし、この辺りはまだ山続きのように松林や雑木林が連なり、耕地は少なかった。その少ない耕地のほとんどが桑(くわ)畑で、若葉が春の日差しの中で黄金(こがね)色に輝いていた。
粕川(かすかわ)のほとりの小高い丘の上に寝そべって赤城山を眺めている若者がいた。
粋(いき)な縦縞模様の袷(あわせ)を着て、黒光りした長い木刀を持っている。色が白く眉(まゆ)の太い精悍(せいかん)な顔付きの若者だった。口元を引き締め、何事か決心を固めたかのようだった。
若者の後ろの松林の中では博奕(ばくち)が開帳している。
一勝負着いたらしく、「畜生め、やられたぜ。今日はついてねえや」とブツブツ言いながら、二人の若者が帰って行った。
「おーい、また、来いよ」
勝った者が銭を数えながら叫んだ。
「へっ、いいカモだぜ、まったく。一分(ぶ)ぐれえの稼ぎになったかい?」
「まア、そんなとこだんべえ」
「おい、忠次、おめえよお、まだ、お町の事を思ってんのか?」
腕まくりをした若者がサイコロの入った壷(つぼ)を振りながら、寝そべっている若者に声を掛けた。
壷の中のサイコロの目を見つめていた四人の若者が一斉に、忠次と呼ばれた若者を見ながら笑った。皆、腰に木刀を差し、遊び人という格好だった。
「確かに、お町はいい女子(おなご)だ。あれだけの器量よしは滅多にいねえ。けどよお、嫁に行っちまったんだぜ。しかも、おめえの事をはっきりと嫌えだと言ってな」
「うるせえ!」
忠次は背中を向けたまま、大声で怒鳴った。
「よお、国定の忠次が田部井(ためがい)の名主(なぬし)のお嬢さんに振られたってえ噂は五目牛(ごめうし)にも聞こえて来たぜ。一体(いってえ)、どんな振られ方をしたんでえ?」
「どんなもこんなもねえ、馬鹿な奴だぜ。花嫁行列ん中に飛び込んで行ってよお、花嫁をかっさらおうと企(たくら)んだのよ。ところがだ、お町の兄貴に取っ捕まり、縛り上げられ、あげくにゃア、お町からはっきり『あんたなんか大嫌い、顔も見たくないわ、ふん』って言われたのよ。大勢の見てる前(めえ)でな、いい恥っさらしだ」
「うるせえ、黙りやがれ!」
忠次は起き上がると振り向いた。
「おい、清五(せいご)、お町は大嫌(でえきれ)えとは言わなかったぞ。ただ、嫌えって言っただけだ」
「どっちだって、嫌われた事にゃア変わりあるめえが」
「それがよお、怒った時の顔がまた、たまんねえんだ。ほんとに、ありゃ、いい女子だぜ」
「おめえなア、まだ、お町に未練があんのか?」
「何を言いやがる。伊与久(いよく)まで行って、お町を引っさらってやろうと思ってたんだがな、もう、きっぱりと諦めた、男らしくのう。それより、俺はもっと大事(でえじ)な事を考(かんげ)えてたんだ」
木刀を抱え込んで座り込むと忠次は五人の顔を眺め回した。
国定村の清五郎、五目牛村の千代松、曲沢(まがりさわ)村の富五郎、この三人は忠次と同い年で、田部井(ためがい)村の又八と国定村の次郎は年下だった。皆、市場村の本間道場に通って、念流(ねんりゅう)という剣術を習っている仲間だった。
忠次が嫁を貰ってから一年が過ぎた。
初めの頃、年下の忠次に何事も従っていたお鶴も、嫁に来て一年が過ぎると新しい生活にも慣れ、だんだんと姉さん風を吹かすようになった。母親ともうまくやり、朝から晩まで母親と共に働き続け、忠次はのけ者にされたような感じだった。
「ねえ、まだ、免許が貰えないの? 一体、いつになったら道場が開けんのよ」
「そんな簡単に取れりゃア、誰だって道場主になれらア。免許を取るってえのは、うんと難しいんだ」
「早く、取ってよね」
「わかってらア。それよりよお、たまにゃア仕事を休んで、どっかに遊びに行こうぜ」
忠次はお鶴を抱き寄せようとするが、
「なに言ってんの。そんな暇なんかないわよ」とつれなかった。
家にいても面白くなく、また、フラフラと遊び歩くようになって行った。
清五郎と富五郎は三室村の勘助の子分になり、嘉藤太(かとうた)と一緒に長脇差(なずどす)を腰に差して村々をのし歩いていた。
勘助は一家を張ると言っていたが、千代松の言った通り、親に反対されて、三室村に一家を張る事はできなかった。仕方なく、田部井(ためがい)村の嘉藤太の家を本拠地にして、妾(めかけ)まで呼んで親分気取りだった。久宮(くぐう)一家の若い者たちと時々、喧嘩をして血を見る事もあったが、うまく追い返していた。国定村はまだ久宮一家の縄張り内だったが、田部井村は勘助のものになったようだった。
千代松は勘助の子分にはならず、忠次と共に本間道場に通っていた。しかし、嫁を貰ってから腑抜(ふぬ)けになってしまった忠次と話をする事もなく、稽古が終わるとさっさと帰って行った。噂では、八寸(はちす)村の七兵衛親分の所に出入りしているという。
お鶴と喧嘩をして、ムシャクシャしていた忠次は内緒で銭を持ち出すと、昼過ぎに家を出た。
赤とんぼが飛び回り、北風が道端のススキの穂を揺らせていた。
からっ風にはまだ早いが、風は冷たかった。
忠次は懐手をすると風に押されるように、フラフラと南へと歩いて行った。足は自然と隣村の嘉藤太の家に向かっていた。嘉藤太には会いたくなかったが、久し振りに博奕(ばくち)を打って気晴らしをしようと思っていた。
当時、博奕は厳しく禁じられていた。しかし、庶民の娯楽として日常茶飯事のように行なわれていたのが実情だった。気心の知れた仲間が集まれば、いつでも、どこでも博奕が始まった。仲間の家は勿論の事、畑の中や道端、寺社の境内、坊主が混じって本堂でやる事もある。その中に女子供が加わっている事も珍しくはなかった。だが、そこらでやっている博奕では大金は動かない。ほんの慰(なぐさ)み程度だった。
大金が動く博奕場は貸元(かしもと)(親分)と呼ばれる博奕打ちが仕切っていた。貸元は客の安全を保証して博奕を開催し、保証料に当たるテラ銭(せん)を勝った客から受け取っていた。
国定村でも養寿寺(ようじゅじ)の縁日や赤城神社の祭りの時、久宮一家の代貸がやって来て賭場を開帳した。その日は村中の者たちが夜の明けるまで博奕を楽しんだ。忠次の父親、与五左衛門(よござえもん)は博奕好きで平気な顔をして大金を掛け、負けっぷりも良かったが、勝った時はみんなに大盤振る舞いをしたと今でも語り草になっている。
祭りの時は大金の動く賭場が開くが、普段はそんな賭場はない。ところが、嘉藤太の家で勘助が貸元になって、いつでも賭場を開いているという。忠次はその噂を聞いていたが、今まで行こうとは思わなかった。しかし、今日は無性に博奕が打ちかった。博奕が打ちたいというより、以前のように清五郎や富五郎たちと一緒に遊びたくなったのかもしれなかった。
意気込んで嘉藤太の家に行ったが、賭場が開かれている様子はなく、やけに静かだった。
忠次が家の中に入ろうとすると、
「おっちゃんはいねえよ」と後ろから声がした。
振り返ると十歳位の子供が竹槍を持って立っていた。この辺りでは見かけない生意気そうなガキだった。
「何でえ、おめえは?」
「留守番だい」と子供は竹槍を構えて、
「おじさんこそ見かけねえけど誰だい?」と聞いて来た。
「留守番だと? 嘉藤太はどっかに行ったんかい?」
「嘉藤太さんもおっちゃんも草津の湯に行ったんだ」
「草津だと?」
「そうだい。おじさんは誰なんだ?」
「誰でもいい。いつ帰(けえ)って来るんだ?」
「知らねえ。饅頭を買って来てやるって言ったけど‥‥‥」
「しっかり、留守番してろ」
武州(ぶしゅう)の川越街道に面した藤久保村に獅子(しし)ケ嶽(たけ)の重五郎という力士上がりの親分がいた。
将軍様の上覧相撲に参加して勝ち星を上げた事もある有名な力士で、表向きは木賃宿(きちんやど)をやりながら、若い者たちに相撲を教え、裏では川越一帯を仕切っている博奕打ちだった。その重五郎親分のもとに、佐渡島(さどがしま)を島抜けした大前田村の栄五郎が隠れていた。
忠次は玉村宿の佐重郎の紹介状を持って、藤久保にいる栄五郎を訪ねた。
「ほとぼりが冷めるまで上州から離れていた方がいい。こっちの事は任せときな」と佐重郎は忠次を栄五郎のもとに送ったのだった。
忠次も栄五郎の噂は色々と聞いていて、一度、会ってみたいと思っていた。しかし、博奕打ちになる気はなく、しばらく、隠れてから国定村に戻って、以前のように剣術の修行に励むつもりでいた。
栄五郎は貫録のある大柄の男で、佐重郎からの紹介状を読むと、
「おめえさん、人を殺して逃げて来たのか?」とドスのきいた声で聞いた。
忠次はうなづき、
「仕方なかったんです」と答えた。
栄五郎は強い視線で忠次を眺め、
「渡世人(とせえにん)になりてえのか?」と聞いた。
忠次は首を振った。
「玉村の親分の手紙によると、おめえんちは国定村で名主をやった事もある家柄じゃねえか。何でまた無宿者なんか殺したんだ?」
「そいつは隣村の名主さんに難癖をつけて来たんです。何とかやめさせようとしたんですけど」
「斬っちまったのか?」
「殺すつもりはなかったけど、気が付いたら、相手は死んでたんです」
栄五郎は軽くうなづくと手紙をたたんだ。
「無宿者は久宮(くぐう)一家の客人だったらしいな。俺が話を付けてやりてえとこだが、相手が悪(わり)い。久宮の豊吉は俺を仇(かたき)だと狙ってるからな。玉村の親分がうまくやってくれるだんべえ。ほとぼりが冷めるまで、ここにいるがいい。だがな、決して、渡世人なんかになろうと思うなよ。ほとぼりが冷めたら国定村に帰(けえ)って、堅気(かたぎ)な暮らしに戻るんだぜ」
「はい。剣術の修行を積んで道場を開きます」
煙管(きせる)に煙草を詰めていた栄五郎は顔を上げると改めて、忠次を見た。
「ほう。おめえ、剣術をやってんのか?」
「はい。本間道場に通ってました」
「成程な。本間道場なら本物(ほんもん)だ。おめえの腕もまんざらでもなさそうだな。俺も若え頃、浅山一伝流を習ってた。剣術を習えば、誰でも刀を抜きたくなる。俺も人を殺(あや)めちまった。今思えば、馬鹿な事をしちまったと後悔している。おめえもこれに懲(こ)りて、二度と人様を斬るんじゃねえぞ」
「はい‥‥‥」
『忠次が帰(けえ)って来た』
という噂は瞬(またた)く間に国定村と田部井(ためがい)村に広がった。
忠次は散歩から帰って来たような気楽な顔して、お勝手に行くと、
「ああ、腹、減ったア」と竈(かまど)の上の鍋(なべ)の中を覗き込んだ。
母親もお鶴も夕飯の支度をしている最中だった。
忠次を見ると二人とも動きを止め、ポカンと口を開けたまま忠次の顔を見つめた。
「今、帰ったぜ」
忠次は照れ臭そうに笑った。
「よう帰って来た‥‥‥」
母親は忠次の姿をじっと眺め、目頭に溜まった涙を拭いた。
「よう帰った来たのう」と何度もいいながら、何度もうなづき、
「早く、お父に知らせてやるべえ」と仏壇の方に行った。
その後ろ姿がやけに小さくなってしまったように思えた。
苦労させて済まねえ‥‥‥
忠次は心の中で詫びていた。
母親がいなくなると、忠次はお鶴を見た。心配を掛けたせいか、少しやつれたように感じられた。
「何で、何であんな事、しちゃったのよ」
お鶴は忠次に詰め寄り、
「あたし、恥ずかしくって実家に帰れないじゃない」と泣き出した。
「お鶴、会いたかったぜ」
忠次はお鶴を抱き寄せた。
お鶴は忠次の胸で泣きながら、
「もうどこにも行かないで」と涙声で言った。
「ああ、もう離さねえ。おめえのそばにずっといるぜ」
忠次はお鶴を強く抱き締めた。
その夜、お鶴を抱きながら、帰って来て本当に良かったと思った。
一年振りに会ったお鶴は嫁に来た当初のように柔順で優しかった。お鶴のためにもう一度、やり直してみようと忠次は考え直した。
縞(しま)の合羽(かっぱ)に三度笠、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に草鞋(わらじ)履き、長脇差(ながどす)を腰に差した忠次と文蔵は浮き浮きしながら、からっ風の吹きすさぶ中、北に向かって旅立った。
紋次親分は川田村(沼田市)の源蔵親分宛の添え状を二人に渡し、修行を積んで来いと送り出した。
源蔵も藤久保の重五郎と同じように相撲取りから親分になった男だった。茗荷松(みょうがまつ)という四股名(しこな)で江戸で活躍したという。
源蔵は忠次の噂を知っていた。
紋次の子分になったと言うといい親分さんを持ちなすったと歓迎してくれた。
忠次は知らなかったが、博奕打ちの間では忠次の評判は高かった。
まず、久宮一家の客人を国定村の忠次という若造が一刀の下に斬り殺したという噂が広まった。それだけなら、そんな噂はすぐに消えてしまっただろう。しかし、忠次を助けるために玉村の佐重郎親分が久宮一家と掛け合っているという噂が流れると、忠次とは一体、何者なんだと誰もが不思議に思った。さらに、国越えした忠次を大前田の栄五郎が匿ったという事も噂になり、忠次という男はただ者ではないと誰もが思うようになっていた。
源蔵も噂の忠次には興味を持っていた。
百々(どうどう)村の紋次の所から忠次が来たと聞くと、直々に会い、忠次をジロジロと眺め、
「おめえが国定村の忠次かい、成程のう」と満足そうに一人うなづいた。
源蔵は忠次を気に入り、客人扱いした。居心地はよかったが、雪が降る前に越後(えちご)に行きたかったので、二人は川田村を後にした。
二人が越後を目指したのは用があったからではなく、ただ単純に海が見たかったからだった。文蔵の馴染みの飯盛女が越後生まれで、海の近くの村で育ったという。話を聞く度に、海が見たいと思っていた。忠次も海というものを知らないので、行ってみるかと軽い気持ちで賛成した。
越後に行くと言うと源蔵は長岡にいる合(あい)の川政五郎親分に紹介状を書いてくれた。
政五郎は上州邑楽(おうら)郡の生まれで、東海道、中山道、甲州街道と旅から旅へと流れ歩いて男を売って来た親分だった。今は長岡に落ち着いて一家を張っていた。
源蔵の言った通り、合の川政五郎は貫録のある親分で、ジロリと睨まれただけでも縮み上がってしまう程、凄みがあった。口数が少なく、めったに口をきかなかったが、
「おめえの噂は聞いてるぜ」と言ったのには忠次も驚いた。
旅の渡世人が各地からやって来ては一宿一飯の世話になるため、博奕打ちに関する噂はすぐに広まって行った。玉村の佐重郎と大前田の栄五郎のお陰で、知らないうちに忠次は名を売っていたのだった。
政五郎から添え状を貰って、二人は出雲崎(いずもざき)の勇次郎のもとに向かった。
勇次郎の父親、久左衛門は越後一の大親分と呼ばれた男だったが、四年前に捕まり、江戸送りとなって牢内で亡くなってしまった。その時、江戸で捕まった大前田栄五郎と一緒になり、栄五郎に最期を看取られたという。その後、栄五郎は佐渡島に送られ、島抜けした時、面倒を見たのが勇次郎だった。
忠次と文蔵は勇次郎に歓迎された。勇次郎は二十三歳と若く、いつも、年上の子分たちに囲まれていた。命令を聞く子分は大勢いたが、気楽に話ができる相手はいなかった。忠次と文蔵は勇次郎の客人になり、話相手となった。
「凄えなア」と文蔵は雪降る中、荒れ狂った黒い海を眺めながら、首を襟に埋めた。
「あいつもこんな寒(さみ)いとこで育ったんかな‥‥‥」
「凄えとこだな」と忠次も背中を丸めた。
「こんなとこで育ちゃア、芯が強くならア」
「おたねも強え女子(おなご)だ。どんな辛え目に会っても決してへこたれねえ」
「兄貴、佐渡島はこの海の向こうにあるんだんべえ」
「そうだ。大前田の叔父御はこの海を越えて島抜けしたんか‥‥‥大(てえ)したお人だなア」
二人は冬の荒海を眺めながら、出雲崎で新年を迎えた。
越後の冬は雪が多く、早く、故郷に帰りたかったが、越後と上州の国境は深い雪で埋まっていた。二人は毎日、新鮮な魚をつまみながら酒を飲んでは博奕を打って、村娘を口説いては夜這(よばい)を掛けたり、時には喧嘩をして暴れながら、雪が解けるのを待ち、三月の末にやっと、百々村に帰って来た。
島村の伊三郎は紋次の縄張りである境宿を狙っていたが、表立った動きはなかった。
伊三郎の子分たちが市にやって来て騒ぎを起こす事もなく、紋次の賭場はいつも賑わっていた。紋次も子分たちに伊三郎の縄張り内に出入りする事を禁じ、喧嘩する事も禁じた。
紋次の子分になって二年が過ぎ、忠次の顔も売れて来た。
何か騒ぎが起こる度に、文蔵と一緒に飛び出して行っては揉め事を解決してやった。絹市の取り引きのいざこざ、酒の上の喧嘩騒ぎ、すりや盗っ人、ゆすり、たかり、下らない夫婦喧嘩に至るまで、騒ぎが起これば、それを解決してやるのも百々一家の仕事だった。騒ぎを治めれば、それ相当の礼金が貰えるので、二人は誰よりも早く現場に急行した。
文蔵は相変わらず、伊三郎の縄張りに行っては素人衆の賭場を荒らして小銭を稼ぎ、木崎宿の女郎屋に通っていた。しかし、忠次は付き合わなかった。お町がいるので、女郎屋に行く必要はなく、また、母親から言われた『弱い者いじめはするな』という言葉を守っていた。
お町は忠次が帰る度に、名主の家から嘉藤太の家に通っていた。兄の所に行くと言えば名主は信じてくれたが、とうとう、忠次と会っている事がばれてしまい、猛反対された。以前のお町だったら口答えもできず、名主の言いなりになったが、今のお町は違う。名主の家を飛び出して実家に帰り、兄と一緒に暮らし始めた。
忠次は暇さえあれば、昼夜を問わず、お町に会いに行っていた。かといって、お鶴の事も忘れていたわけではない。お鶴のもとにも時々、帰っていた。
お鶴はお町の存在を知っていた。お町に再会した日、嘉藤太の家に行ったきり帰って来なかったので、お町と一緒にいたに違いないと悟っていた。当然、お町との事を泣きながら怒ったが、別れるとは言い出さなかった。
忠次の気持ちとしては複雑だった。
お鶴と別れて、お町と一緒になりたいが、お町はお鶴のように母親と一緒に養蚕や機(はた)織りをするような女ではなかった。忠次としてもそんな事をさせたくはない。お鶴には今のまま、母親の面倒を見てもらい、お町には、後に一家を張った時、姐(あね)さんとして子分たちの面倒を見てもらおうと都合のいい事を考えていた。最近は、お鶴も諦めたのか、お町の事をあれこれ言う事もなく、お町もお鶴と別れろとは言わなくなり、忠次は二人の機嫌を取りながら交互に通っていた。
市の立つ二日、七日、十二日、十七日、二十二日、二十七日の六日は忙しかった。
境宿には西の上市、中央の中市、東の下市と三ケ所に市場があり、順番に市を立てていた。紋次の賭場も三ケ所あり、上市の開かれる上町の煮売茶屋、伊勢屋の二階、中市の開かれる中町の質屋、佐野屋の離れ、下市の開かれる下町の煮売茶屋、大黒(だいこく)屋の二階がそうだった。市が立つのは一ケ所でも、賭場は三ケ所で開いていた。初めの頃は市の立つ町の賭場だけを開いていたが、一ケ所だけでは間に合わなくなり、開催する市場に関係なく三ケ所で同時に開くようになった。さらに、市の立たない日は下町の料理茶屋、桐(きり)屋で賭場を開帳していた。
伊勢屋は境宿の新五郎、佐野屋は柴宿の啓蔵、大黒屋は木島村の助次郎とそれぞれの代貸が賭場を開いた。親分の紋次は大切なお客が来た時だけ顔を出して挨拶をした。市のない日、桐屋は新五郎と助次郎が交替でやり、啓蔵は柴宿の賭場を受け持っていた。その他、各村々で開く小さな賭場は親分の許しの出た子分たちが手のあいている時に開いていた。
忠次と文蔵は代貸(だいがし)の新五郎と行動を共にする事が多く、市の立つ日はいつも伊勢屋の賭場にいた。新五郎が客の銭を駒札(こまふだ)に替え、中盆(なかぼん)の矢島村の周吉が丁半の駒札を揃えて勝負を進行させ、淵名(ふちな)村の岩吉が壷(つぼ)を振った。文蔵と忠次、山王道(さんのうどう)村の民五郎の三人が客のためにお茶を出したり、煙草盆(たばこぼん)を勧めたり、客のための雑用をする。客同士が喧嘩した時、仲裁したり、手入れがあった時に真っ先に客を逃がすのも役目だった。そして、三下奴の富塚村の角次郎と八寸(はちす)村の才市が外に立って見張りをした。
文蔵と忠次は小さな賭場を開帳する事はまだ許されていなかった。素人衆に安全に遊んでもらうためには、まず、雲助どもを相手に修行を積まなければならない。気が荒く、すぐにカッときて暴れ、負ければ銭を払わずに夜逃げしてしまうような雲助たちをうまく扱えるようにならなければ、一人前とは言えなかった。文蔵と忠次は親分から、賭場開帳の許しが貰えるように、毎日、汗臭い人足部屋で壷を振っていた。
保泉(ほずみ)村の久次郎と茂呂(もろ)村の孫蔵が交替にやって来たので、忠次と文蔵はお仙の店で一杯やってから、女の所に行こうとした。
代貸の新五郎はじっと我慢しろと言ったが、文蔵と忠次に我慢している事などできるはずなかった。何かをしなければいられなかった。
二人は木崎宿に遊びに行くと言っては出掛け、三ツ木村の文蔵の家で旅人(たびにん)姿に着替えると、手拭いで顔を隠して島村一家の賭場を荒らし始めた。百々村から比較的遠い、利根川の向こう側、武州の中瀬河岸(なかぜがし)から始めた。二人だけでやるので、大きな賭場は襲えない。伊三郎の子分たちが村々で開いている小さな賭場を狙った。しかし、捕まれば簀巻(すま)きにされて、利根川に流されてしまう。失敗は絶対に許されなかった。小さな賭場とはいえ、素人衆の賭場よりも多額の銭が動いている。一回の賭場荒らしで簡単に二、三両の稼ぎがあった。二人は稼いだ銭を無駄使いせず、島村一家との出入りの時に使おうと蓄えて置く事にした。
中瀬河岸で一回、前島河岸で一回と順調に行き、調子に乗った二人は、伊三郎の子分たちは腰抜け揃いだと再び、利根川を渡って中瀬河岸に出掛けた。
梅雨明けの暑い日だった。セミがやかましいくらいに鳴いている。賭場を開いていそうな所を当たってみたが、警戒しているのか、どこでもやっていなかった。
半ば諦め、賑やかな表通りをウロウロしているとニヤニヤした顔の伊三郎の子分に声を掛けられた。近くの河岸問屋の離れで賭場が開かれているので遊んで行かないかと言う。
二人は顔を見合わせ、文蔵はうなづいたが、忠次は首を振った。文蔵は忠次の返事など構わず、さっさと案内させた。忠次も子分たちに背中を押されるように賭場へと向かった。
川べりに建つ離れに案内すると子分たちは二人の三下奴に頼んだぜと言って、引き上げて行った。三下奴は小腰をかがめて、長脇差を預けてくれと言った。
文蔵はうなづき、長脇差を腰から外したが、三下奴には渡さず、刀の柄(つか)で三下奴を殴ると土足のまま中に飛び込んで行った。忠次もこうなったら文蔵に従うほかなく、もう一人の三下奴を殴って、文蔵を追った。
薄暗い家の中では百日蝋燭(ろうそく)に照らされて、十人余りの旦那衆が博奕に熱中していた。代貸、中盆、壷振りと三人が揃い、出方の若い衆も四、五人いる。思っていたよりも大きな賭場だった。チラッと見ただけでも、盆の上に漆(うるし)塗りの上駒(じょうごま)がいくつも張られていた。二、三十両は動いているに違いなかった。
文蔵と忠次が長脇差を持ったまま、賭場を見ていると、
「なんでえ、おめえらは?」と若い衆が睨みながら寄って来た。
この場から無事に逃げるには代貸をたたっ斬るしかないと忠次は思った。文蔵も懐に手を入れ、手裏剣を握っている。久し振りに大暴れしてやると覚悟を決めた。
ところが、文蔵は、
「どうも、失礼いたしやした」と頭を下げると逆戻りしてずらかってしまった。
入り口で気絶していた三下奴が大声で、
「賭場荒らしだ!」と騒ぎ出した。
忠次は長脇差を抜いて逃げようとしたが、刀を抜く前に若い衆に捕まり、外に放り出されてメチャメチャに殴られた。
「おい、てめえらだな、この前(めえ)、賭場荒らしをして銭をかっさらって行きやがったんは?」
代貸が忠次の顔を雪踏(せった)で踏み付けながら怒鳴った。
「そんな事ア知らねえ!」と忠次は叫んだ。
「間違えねえ。手拭いでほっかむりした二人組だ」
「違う、関係ねえ、俺じゃアねえ」
「強情な野郎だ。どうせ、てめえの命はねえんだぜ。おい、三下、てめえはどこのどいつだ?」
若い衆が忠次の手拭いをむしり取った。幸い、忠次の顔を知っている者はいなかった。
「おい、死ぬ前に名を名乗ったらどうでえ。墓もおっ立てられねえじゃねえか。もっとも、おめえの墓を立ててくれる奴がいたらの話だがな」
若い衆が忠次を見下ろしながら、ゲラゲラ笑った。
「武州無宿の国次郎」と忠次は出まかせを言った。
死ぬ前に本名を名乗りたかったが、新五郎の言葉が思い出され、紋次親分に迷惑を掛けるわけにはいかなかった。
「武州のどこでえ?」
代貸が忠次の腹を蹴飛ばした。
「藤久保だ」と忠次は答えた。
「藤久保だと? てめえは獅子ケ嶽(ししがたけ)(重五郎)んとこの三下か?」
「違う。三下なんかつまんねえから、飛び出して来たんだ」
「へっ、三下修行も勤まらねえ半端者(はんぱもん)が、生意気(なめえき)な真似するんじゃねえ。簀巻きにして放り投げろ」
忠次は両手、両足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされ、さらに筵(むしろ)で簀巻きにされた。
畜生、死にたかアねえよお‥‥‥
死ぬ前にお町に会いてえ‥‥‥お鶴にも会いてえ。
くそっ、俺ももう終わりかよ‥‥‥こんな事で死んじまったら、ほんとに情けねえぜ。
日光の円蔵の思惑通り、忠次が百々一家の跡目を継いだという事はあっと言う間に各地に知れ渡った。円蔵が福田屋栄次郎に頼み、大前田村の要吉親分を招待したお陰で、要吉親分のもとに出入りする旅人(たびにん)たちによって忠次の噂は各国の親分衆の間に広まって行った。
弟の栄五郎が各国を旅しながら名を売っているので、要吉の所には各国から旅人が集まって来た。要吉もまた、やって来た旅人の面倒をよく見たので、大前田一家の評判は高く、遠方の親分衆にも知られていた。
十七の時、人を殺して、玉村の佐重郎と栄五郎が動いた事で上州内に知れ渡った忠次の名は、百々一家の二代目を継いだ事で、渡世人たちの間では、上州以外の国にも知れ渡るようになって行った。
百々一家の親分になった忠次だったが、子分衆は少なかった。
三ツ木の文蔵、保泉(ほずみ)の久次郎、山王道(さんのうどう)の民五郎、茂呂(もろ)の孫蔵、八寸(はちす)の才市の五人と三下奴が保泉の宇之吉と上中(かみなか)の清蔵の二人、客人の円蔵を入れても、たったの八人だけだった。
伊三郎と戦うには、まず、頭数を揃えなければならない。忠次は田部井(ためがい)村に行き、国定村の清五郎、曲沢(まがりさわ)村の富五郎、五目牛(ごめうし)村の千代松、田部井村の又八、国定村の次郎の五人を子分に迎えた。嘉藤太(かとうた)も子分になると言ったが、妾(めかけ)にしたお町の兄を子分にするわけにもいかず、兄弟分の盃を交わすに留まった。
頭数も十五人となり、伊三郎に殴り込みを掛けようとみんなの意気は上がった。しかし、円蔵に止められた。
「戦を甘く見ちゃアいけねえよ。ただ、殴り込みを掛けりゃいいってもんじゃねえ。戦をおっ始めるからには絶対に勝たなくちゃなんねえ」
「へっ、伊三郎なんか、ぶった斬ってやるぜ」
文蔵は自慢の手裏剣を続けざまに柱に投げつけた。文蔵が腹を立てる度に手裏剣を投げるので、その柱は穴だらけになっていた。
円蔵は柱に刺さった手裏剣を眺めたが、顔色も変えずに、
「伊三郎を斬って、ただで済むと思ってんのか?」と文蔵に聞いた。
「なあに、伊三郎が死にゃア島村一家もおしめえよ。百々一家がそっくり、奴のシマを貰ってやるぜ」
「甘え、甘え。そんなこっちゃ、百々一家も二代目(にでえめ)で終わりだな」
「何だと? いくら、客人でも許せねえ」
文蔵は手裏剣を握り締めて、円蔵を睨んだ。
円蔵は文蔵を無視して話し続けた。
「伊三郎が殺されて、大勢の子分どもが黙ってるとでも思ってんのかい? おめえらが国越えしてるうちに、御隠居(ごいんきょ)は殺され、百々一家のシマは全部、島村のもんになってるぜ」
「うるせえ。代貸が殺され、先代の親分が倒れたってえのに黙ってられるけえ」
「ものには順序ってもんがあるんだ。戦に勝つにゃア、まずなア、敵をよーく知らなけりゃなんねえ。こん中に、伊三郎が今、どこで何をしてるか知ってる奴がいんのか?」
「そんな事ア知らねえや。どうせ、昼間っから、妾のケツでもなめてんじゃねえのかい」
孫蔵と才市が顔を見合わせてニヤニヤしたが、円蔵に睨まれてうつむいた。
「敵がどこにいるかも分かんねえで、殴り込みなんかできるか。伊三郎のシマに入(へえ)った途端におめえらの事はすぐに知れ渡り、逆に待ち伏せを食らって全滅するぜ」
「確かに円蔵さんの言う通りだ」と忠次が文蔵に言った。
「奴は百々一家の事をよく調べて、代貸たちを引き抜いたに違えねえ。俺たちも伊三郎の事をもっと調べなくちゃなんねえぜ」
「そうだ。忠次親分を初めとして、百々一家の連中はみんな若え、焦る事アねえんだ。着々と、しかも確実に勢力を伸ばして行くんだ。伊三郎もすぐには事を起こす事はあるめえ。各地の親分さんが今、忠次親分に注目してるのを知ってるからな。下手な事をすりゃア悪者(わるもん)になる。世間体を気にする伊三郎が向こうから手を出す事はねえ。こっちが騒がねえ限りは当分の間は大丈夫(でえじょぶ)だ。その間に、あっしが伊三郎の事を調べる。まず、地盤をしっかりと固める事が一番だぜ」
忠次は円蔵の意見を入れ、伊三郎の事は一切、円蔵に任せる事にした。そして、伊三郎の事を後回しにして、国定村と田部井村から久宮(くぐう)一家の子分どもを追い出す事に決めた。
「その前(めえ)に、まず、第一にやるべき事がある」と円蔵は皆の顔を見回しながら言った。
「唯一の賭場である伊勢屋に客を集めなくちゃならねえ」
「へっ、そんな事ア分かってらア」
文蔵はふて腐れていた。
「何かいい策でもあるんですかい?」と忠次は期待を込めて聞いた。
「ある。ただし、銭儲けの事を考えちゃなんねえよ。あっしら渡世人は堅気の衆におマンマを食わせてもらってる身だ。堅気の衆を大切にすりゃア、客は自然と増える」
「客人は大切にしてるぜ。しかし、奴らは伊三郎の賭場の方に行っちまったのよ。どうせ、伊三郎が裏できたねえ事を仕組んだに決まってらア」
文蔵はまだ、伊三郎殺しにこだわっていた。
「策はある」と円蔵は力強く言った。
みんなの目が文蔵から円蔵へとそそがれた。
「今まで五分(ぶ)デラだったのを四分デラにする」
「四分デラだと?」
文蔵は呆れた顔をした。
忠次は伊勢屋の賭場に客を集めるため、まず、テラ銭(せん)を五分(ぶ)から四分にした。その噂は徐々に広まり、客は少しづつ戻って来た。
伊三郎は忠次が四分デラで賭場を開いている事を知ったが、対抗して四分デラにはしなかった。しなかったというよりできなかった。伊三郎は代貸たちに賭場を任せ、テラ銭の上前を撥ねていた。それをカスリといい、伊三郎は五分デラのうち二分をカスリとして受け取っていた。四分デラにすれば、代貸の稼ぎが減ってしまうため、伊三郎としても無理に命令はしなかった。
百々一家の場合は伊三郎のように賭場が多くないため、すべての賭場は親分の支配下にあった。テラ銭の七割は紋次のものとなり、残りの三割を代貸を初めとした子分たちで分配した。木島の助次郎や柴の啓蔵が紋次を裏切ったのも、テラ銭の分配にあった。紋次に七割持って行かれるよりも、伊三郎の代貸になって六割を貰った方がいいと考えたからだった。
忠次の四分デラには対抗しなかった伊三郎も女の壷振りには対抗しないわけにはいかなかった。お辰の噂が広まると忠次の伊勢屋の賭場は客で溢れ、伊三郎配下の大黒屋、桐屋、佐野屋の賭場は閑古鳥(かんこどり)が鳴く有り様だった。
伊三郎は自分の妾(めかけ)のうちでも一番若くて美しいお北という女に壷振りを仕込んで、大黒屋の賭場で壷を振らせた。しかし、賭場の雰囲気になれていないお北は極度に緊張してしまい、サイコロを壷に入れる事もできずに何度も失敗した。焦れば焦るほどボロを出し、仕舞いには泣き伏してしまった。最初の日は仕方がない、二度目からはしっかりやれと伊三郎は慰めたが、二度目、三度目もうまくはいかなかった。これじゃア勝負はできんと旦那衆は逃げてしまい、お北を見るための冷やかしの客ばかりが集まって来た。他所の親分たちの笑い物になる事を恐れた伊三郎は、すべての責任を代貸の助次郎のせいにして、大黒屋の賭場は閉めてしまった。
そんな時、フラッと弁天のおりんが伊三郎のもとに草鞋(わらじ)を脱いだ。女とはいえ、渡世人として充分に貫録のあるおりんを一目見て、伊三郎は天に感謝した。伊三郎は桐屋の賭場でおりんに壷を振らせて、大成功を納めた。
境宿のお辰とおりんの二人の女壷振りの噂は他国にまで鳴り響いた。おりんが弁天なら、お辰は吉祥天(きっしょうてん)だと言い出す者も現れ、いつしか、吉祥天のお辰という通り名が付いた。二人の天女見たさに各地から旅人が集まり、親分衆までもがわざわざやって来た。弁天と吉祥天のどちらが勝ったという事はなく、伊勢屋も桐屋もいつも客で一杯だった。
おりんは市の立つ日は桐屋で壷を振っていたが、その他の日は伊三郎の代貸たちの賭場を巡って壷を振っていた。おりんが来たといえば、どこの賭場でも客が大勢集まった。伊三郎はおりんを最上級の客人として持て成し、身内にならないかと何度も誘った。しかし、おりんは一ケ所に落ち着くのは性に合わないと断っていた。
おりんが伊三郎のもとにいる時、忠次は伊三郎と争う事を禁じ、地盤をしっかり固める事に力をそそいだ。特に国定村と田部井村の堅気の衆すべてを味方に付けるため、ちょっとした揉め事が起これば、すぐに飛んで行き、村のためになる事には進んで協力した。
いつも騒ぎを起こしている文蔵がお辰に夢中になって、つまらない喧嘩をしなくなったのは都合のいい事だった。お辰の方はおりんに負けられないと壷振りに真剣になっているので、色恋沙汰には興味を示さなかったが、文蔵の事を嫌いではないようだった。忠次としても、二人は似合いの夫婦になるだろうと陰ながら見守っていた。