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『忠次が帰(けえ)って来た』
という噂は瞬(またた)く間に国定村と田部井(ためがい)村に広がった。
忠次は散歩から帰って来たような気楽な顔して、お勝手に行くと、
「ああ、腹、減ったア」と竈(かまど)の上の鍋(なべ)の中を覗き込んだ。
母親もお鶴も夕飯の支度をしている最中だった。
忠次を見ると二人とも動きを止め、ポカンと口を開けたまま忠次の顔を見つめた。
「今、帰ったぜ」
忠次は照れ臭そうに笑った。
「よう帰って来た‥‥‥」
母親は忠次の姿をじっと眺め、目頭に溜まった涙を拭いた。
「よう帰った来たのう」と何度もいいながら、何度もうなづき、
「早く、お父に知らせてやるべえ」と仏壇の方に行った。
その後ろ姿がやけに小さくなってしまったように思えた。
苦労させて済まねえ‥‥‥
忠次は心の中で詫びていた。
母親がいなくなると、忠次はお鶴を見た。心配を掛けたせいか、少しやつれたように感じられた。
「何で、何であんな事、しちゃったのよ」
お鶴は忠次に詰め寄り、
「あたし、恥ずかしくって実家に帰れないじゃない」と泣き出した。
「お鶴、会いたかったぜ」
忠次はお鶴を抱き寄せた。
お鶴は忠次の胸で泣きながら、
「もうどこにも行かないで」と涙声で言った。
「ああ、もう離さねえ。おめえのそばにずっといるぜ」
忠次はお鶴を強く抱き締めた。
その夜、お鶴を抱きながら、帰って来て本当に良かったと思った。
一年振りに会ったお鶴は嫁に来た当初のように柔順で優しかった。お鶴のためにもう一度、やり直してみようと忠次は考え直した。
翌朝、清五郎と富五郎がやって来た。
「よお」
清五郎が懐かしそうに忠次の顔をまじまじと見た。
「おめえら、元気だったかい?」
忠次は二人を縁側に迎えた。
長脇差(ながどす)は腰に差していなかったが、二人とも相変わらず、派手な遊び人の格好だった。
「おめえ、貫録を上げたなア」と富五郎がしみじみと言った。
「何を言ってやがる。たったの一年、会ってねえだけじゃねえか。俺はちっとも変わっちゃいねえよ」
「いや、富の言う通りだ。おめえは変わった」
清五郎も忠次を眺めながら、満足そうにうなづいた。
「そうかい。それより、勘助の兄貴は元気かい?」
「元気には違えねえが情けねえ話よ」
清五郎は顔をしかめると腰を下ろした。
「何かあったんかい?」
「あったも何もねえ」と富五郎は唾(つば)を吐いた。
「おめえが久宮(くぐう)一家の客人を殺(や)ってから、久宮一家の連中が田部井やら国定に押しかけて来て、おめえを捜し回っていやがったのよ。勘助の兄貴はおめえの事をかばうわけでもなく、あんな奴は知らねえと三室に帰っちまった。今じゃア嫁を貰って、すっかり堅気に戻って代官所に勤めていやがる。兄貴があんな意気地無しだったとは知らなかったぜ」
「へえ、兄貴が堅気になったんか‥‥‥」
忠次は庭の柿の木を眺めた。上の方に柿の実がたった一つぶら下がっていた。
肩で風切ってのし歩いていた、あの勘助が堅気になったとは信じられない事だった。
「そうさ、見損なったぜ」
富五郎は顔を歪めると、また唾を吐いた。
「おめえらはその兄貴の子分になったんじゃなかったんか?」
「へっ、盃なんか突っ返してやったぜ」
「ほう。それじゃア、おめえたちゃ今、何やってんだい?」
「おめえの帰りをずっと待ってたのよ」と富五郎は勢いよく忠次の膝を叩いた。
「何だと?」
忠次は清五郎と富五郎の顔を見比べた。
「おめえが大前田の栄五郎親分さんの子分になったってえ事はすっかり聞いてるぜ」
「そんな噂が立ったんか?」
「ああ、栄五郎の親分さんがおめえを匿(かくま)ってるってな。それだけじゃねえ、おめえのために、わざわざ、玉村の親分さんが久宮一家と話をつけてくれたんだ。玉村の親分さんを動かしただけでも、おめえは大(てえ)したもんだって評判になったんだぜ」
「そうだったんか‥‥‥」
「なあ、一家を張るために帰って来たんだんべえ?」
清五郎は当然の事のように聞いた。
「そんな事、決まってらア、なあ」
富五郎も期待を込めて忠次を見た。
「いや、そういうわけじゃねえんだが‥‥‥」
忠次は言葉を濁(にご)した。
「なに、違うんか? 嘉藤太(かとうた)の兄貴もおめえの帰りを待ってるんだぜ」
「嘉藤太がか?」
「おめえが一家を張るなら子分になってもいいって言ってるぜ」
「嘉藤太が俺の子分になるだと? 信じられねえ」
「兄貴も本気だぜ」と富五郎もうなづいた。
「おめえの度胸に惚れ込んだようだ。勘助の兄貴を追い出してよお、おめえが帰って来たら、一家が張れるようにって、うちまで直してる有り様だ」
「あの嘉藤太が俺のためにか‥‥‥一体(いってえ)、どうなってんだい? 一年、留守にしただけで随分と変わっちまったもんだな」
「この辺りもすっかり変わっちまった」
清五郎は情けない顔をして首を振った。
「国定も田部井も完全に久宮一家の縄張りになっちまったんだ」
「前(めえ)から、この辺りは久宮一家のシマだったんべえ?」
「そりゃそうだが、前は祭りん時だけだ。それが、今じゃア月に三、四回、賭場を開いて、村中をウロウロしていやがる」
「何でまた、そんなふうになっちまったんでえ?」
「嘉藤太の兄貴んとこでやってた賭場が流行(はや)ってたのを知って、この辺りでもテラ銭が稼げる事が分かったんだんべえ。それに、おめえの事も関係してるんだ」
「俺の事?」
「ああ。国定の名主さんと田部井の名主さんがおめえの事を許してもらうために、久宮一家と話をつけたんだが、そん時の条件に賭場を見逃すって事が含まれてたらしい」
「何てこった‥‥‥俺のために久宮一家をのさばらせる事になったんか」
「だからよ、おめえが一家を張ってよお、久宮の奴らを追っ払ってくれ」
「まあ、待ってくれや。今の俺アまだ一家を張れるような貫録じゃねえ」
「そんな事、言うねえ。もうすっかり準備はできてんだぜ。千代松の奴だって、おめえなら子分になってもいいって言ってんだ」
「千代松もか‥‥‥嬉しいが、もうちっと待ってくれ。栄五郎親分から、百々(どうどう)村の紋次親分んとこで修行を積めって言われてんだ」
「栄五郎親分さんからか‥‥‥おめえも凄えなア。栄五郎の親分さんから直々にそう言われたんか?」
「そうさ。一年間、俺も渡世人の修行を積んで来たが、まだ、一家を張るにゃア早え。一家を張って久宮一家と事を起こすつもりなら、それ相当な準備ってえもんが必要だ。勘助の兄貴みてえに一家を張ったはいいが、すぐに潰れちまったんじゃアみっともねえ。恥をかかねえためにも、もうちっと修行を積まなけりゃなんねえ」
「栄五郎親分にそう言われたんなら仕方がねえな」
清五郎も富五郎も少しがっかりした顔でうなだれた。
「おめえたちの気持ちは分かった。そうと決まりゃア、俺はさっそくにも百々村に行って来るぜ」
「おっと、忠次よお」と富五郎が顔を上げた。
「おめえが殺(や)った野郎の兄弟分(きょうでえぶん)てえのが久宮一家に世話になってるらしい。気を付けた方がいいぜ」
「兄弟分だと? そいつが俺の命を狙ってるってえのかい?」
「多分な。その野郎を実際に見たわけじゃねえんで、はっきりとは分かんねえが、久宮の奴らがチラッとそんな話をしてたのを耳にしたんだ。玉村の親分さんが出向いて話を付けたんだから、久宮一家も下手な真似はできねえだんべえ。だが、一応、心得ていた方がいいぜ」
「分かった」
「いつ、戻って来るんだい?」と清五郎が聞いた。
「二、三年は掛かるかもしれねえ」
「二、三年か‥‥‥」
「百々村なら近え。俺たちも時々、遊びに行くぜ」
忠次は母親にもお鶴にも何も言わず、父親の形見の長脇差(ながどす)を腰に差すと家を飛び出して、百々村に向かった。早く行けというように、からっ風が背を押した。
百々村は国定村より二里半程(約十キロ)、南にあり、境の宿場のすぐ東隣りの村だった。
木島村まで来て、ふと、忠次は伊与久村に嫁に行ったお町の事を思い出した。百々村と伊与久村は一里と離れていない。もしかしたら、ばったりと会うかもしれないと思った。
お町の笑顔を思い浮かべ、砂埃(すなぼこり)の舞う中、呆然と立ち尽くしていたが、
「馬鹿野郎」と首を振ると伊与久村とは反対方向の百々村に足を向けた。
渡世人らしく、万次郎から習った作法通りの仁義を切って、忠次は紋次一家の敷居を跨(また)いだ。応対に出た子分は忠次を見て三下奴(さんしたやっこ)かと見下したが、国定村の忠次郎と名乗った途端、一瞬、驚いた顔をして仁義を受けた。さらに、大前田の栄五郎の添え状を差し出すと、その子分はやけにかしこまって、忠次を家に上げた。
客間らしい部屋で待っていると先程、仁義を受けた男がやって来て、親分のいる部屋に案内した。
床の間に水墨画の描かれた大きな掛け軸が掛けられ、それを背にして、親分らしい男が座り、その脇に代貸(だいがし)らしい男が座っていた。親分の前には長火鉢あり、鉄瓶(てつびん)から湯気が昇っている。
忠次は部屋に入るとかしこまって座り、頭を下げた。
「ほう、おめえが噂の忠次かい? 久宮一家の客人を一刀の下(もと)に斬ったとかいう国定村の忠次かい?」
代貸らしい男が忠次を見つめながら聞いた。三十半ばの苦み走ったいい男という感じだった。
「へい」と忠次は低い声で言って、うなづいた。
「大前田の兄弟(きょうでえ)は元気だったかい?」と今度は親分が聞いた。
「へい、お達者でした」
「佐渡を島抜けするたア兄弟も大(てえ)した男になったぜ。おめえの事を頼むと書いてあった。兄弟に頼まれたら、この俺もいやとは言えねえ。藤久保の親分とこで三下修行をやったそうだな。仁義の切り方も作法にかなってるし、子分にしてやってもいいぜ」
「へい、お願いします」
紋次は栄五郎と同年配で、頬に刀傷を持つ貫録のある親分だった。この親分なら文句はないと、忠次は紋次から子分の盃を貰った。
子分になってまだ半年という保泉(ほずみ)村の久次郎という男が忠次の事を兄貴と呼んで、色々と教えてくれた。久次郎の方が先に子分になったのだから兄貴分だと言っても、忠次の方が年が一つ上だし、渡世人の貫録もあるからと言って聞かなかった。
久次郎の話によると百々一家の縄張りは日光例幣使(れいへいし)街道の柴宿から境宿までだった。街道筋にある神社や寺院の祭りや縁日の時、出掛けて行って賭場を開いていたが、一番の稼ぎは境宿の絹糸市だった。毎月、二の日と七の日に立つ六斉市(ろくさいいち)は各地から大勢の人が集まり、大金を手にした者は迷わず博奕(ばくち)に飛びついた。
「ほう、どの位(くれえ)の稼ぎがあるんだ?」
「俺っち下っ端にゃア、よく分かんねえけど、五、六両はあるんじゃねえですか」
「一日に五、六両か、そいつは凄えや」
当時の相場では金一両は銭にして、およそ六貫(かん)五百文(もん)、一貫は一千文で、人足の賃金は一日百文位であった。人足が一月掛かっても一両は稼げない。それをたった一日で、五、六両も稼ぐのだから大したものであった。
紋次親分の下には木島の助次郎、境の新五郎、柴の啓蔵という三人の代貸がいて、百々一家の三人衆と言われていた。その下に、武士(たけし)の惣次郎、馬見塚(まみづか)の左太郎、矢島の周吉という三人の中盆(なかぼん)がいる。代貸というのは賭場において親分(貸元(かしもと))の代理を務める者、中盆というのは賭け金を仕切る事のできる者で、壷(つぼ)を振る事もあった。その下に出方(でかた)と呼ばれる若い衆が忠次を入れて十二人、その下に三下奴が六人いた。
百々一家に隣接して、東には木崎一家、西には玉村一家、南には島村一家、北には伊勢崎一家があった。
木崎一家は飯盛(めしもり)女を置く林屋という旅籠屋(はたごや)の主人、孝兵衛を親分として日光例幣使街道の木崎宿から太田宿にかけて縄張りにしていた。
玉村一家は同じく飯盛女を置く角万屋という旅籠屋の主人、佐重郎を親分として日光例幣使街道の五料宿から倉賀野宿までを縄張りとしていた。佐重郎親分には、すでに忠次も世話になっている。
伊勢崎一家は栗ケ浜という四股名(しこな)で江戸で活躍した伊勢崎出身の力士、半兵衛を親分として伊勢崎一帯を縄張りにしていた。半兵衛は相撲好きな大前田の栄五郎と兄弟分だった。
島村一家は船問屋の主人、伊三郎を親分として利根川筋の河岸(かし)と世良田(せらだ)村を縄張りに持ち、最も勢力を持っていた。伊三郎は木崎宿の孝兵衛と兄弟分だった。
木崎の孝兵衛も玉村の佐重郎も島村の伊三郎も伊勢崎の半兵衛も皆、関東取締出役(しゅつやく)の道案内を務め、いわゆる『二足の草鞋(わらじ)』を履いていた。紋次親分も伊三郎から道案内をやらないかと誘われたが断ったという。
百々一家の表の顔は私設の問屋場(といやば)だった。境宿は間(あい)の宿(じゅく)といわれ、公設の問屋場がなく、人足や馬を常時、用意しておく事ができなかった。人馬が必要な時は、名主が伊勢崎の役所まで願い出なければならず、急の時は間に合わない。そんな時は急いで、高い賃金を払って人馬をかき集めなくてはならず、名主の苦労は大変なものだった。そこで紋次が名主のために始めたのが私設の問屋場だった。境宿のすぐ隣りの百々村に人足や馬を常に確保して置き、必要の時、必要な数だけ、名主に差し出した。人馬を提供する代わりに賭場を黙認してもらっていたのだった。
紋次の家の裏には人足小屋があり、各地から流れて来たならず者たちが大勢、たむろしている。雲助(くもすけ)と呼ばれる駕籠(かご)かきなども百々一家が仕切っていた。
忠次は久次郎に案内されて、境宿を見て回った。
西の丁切(ちょうぎり)(木戸)を抜けるとすぐ左手に『伊勢屋』という煮売茶屋があった。
「市日には、ここの二階で賭場を開帳します」と久次郎は説明した。
「ほう」と言いながら、忠次は伊勢屋の暖簾(のれん)を眺めた。
「上町(かみちょう)の伊勢屋、中町の佐野屋、下町(しもちょう)の大黒(だいこく)屋の三ケ所で賭場を開くんです」
伊勢屋の隣りに髪結床(かみゆいどこ)があり、百々一家の者たちがお世話になっているという。
しばらく行くと右側に本陣があった。街道の両脇には居酒屋、煙草(たばこ)屋、菓子屋、荒物屋、酒屋、太物(ふともの)屋、質屋など商店が並び、宿場の中央に高札場(こうさつば)と市場の神様を祀(まつ)る石宮があった。その先にも商店がずらりと並んでいる。大間々へと向かう道の角に『桐屋(きりや)』という料理屋があった。
「市日以外の日は、ここの二階で賭場を開いてます。今日も代貸の助次さんがやってます」
桐屋の前で三人の渡世人が座り込んで話をしていた。
「文蔵の兄貴」
久次郎が声を掛けると三人は振り返った。
手拭いを肩に掛け、弁慶格子の袷(あわせ)を着た兄貴分が、
「何でえ、久次か」と言って、忠次を見た。
「おめえ、お客人を連れて来たんか?」
「そうじゃねえんです。新入りの国定村の忠次さんです」
「何だと? 国定村の‥‥‥」
文蔵はゆっくりと立ち上がった。
「すると、てめえは久宮一家にいた流れ者(もん)を一刀の下にたたっ斬ったっていう、あの国定村の忠次か?」
「兄貴、その通りです。その忠次さんです」
「ほう、おめえがのう」
文蔵は鋭い目付きで、忠次の姿を上から下までジロリと睨んだ。
「三ツ木村の文蔵兄貴です」と久次郎が紹介した。
「おめえ、親分から盃を貰ったんかい?」
忠次はうなづいた。
「そうかい、子分になったんかい。言っとくがな、兄貴分はこの俺だぜ」
「へい、兄貴」
忠次は軽く頭を下げた。
「おう、忠次。まあ、頑張れや」
文蔵は機嫌よさそうに忠次の肩を叩いた。
「久次、おめえ、俺の代わりにここにいろ」
「えっ?」
「俺は、こいつに話があるんだ」
「でも、そんな事したら、また、代貸に怒られますよ」
「へっ、くそ食らえ!」
文蔵に連れられて忠次は来た道を引き返し、上町にある小さな居酒屋に入った。まだ、日が高いので、店の中に客はいなかった。
艶(あで)やかな着物を着た色っぽい年増(としま)の女が、
「あら、文蔵さん、いらっしゃい」と奥から現れた。
「今頃、こんなとこに来て大丈夫なの?」と文蔵を軽く睨み、忠次を見て、
「いらっしゃいませ」と笑った。
忠次はその女の美しさに見とれながら、
「へい」と頭を下げた。
文蔵は慣れ慣れしい言葉で女に忠次を紹介し、酒を注文した。
「まずは兄弟分の盃を交わそうじゃねえか」
文蔵はうまそうに酒を飲んだ。
「そうかい、おめえが国定村の忠次かい。噂は聞いてるぜ。一度、会ってみてえと思ってたんだ。おめえ、大前田の叔父御んとこに隠れてたそうじゃねえか」
「へい」
「俺はまだ、会った事もねえがよお、叔父御は噂通りの大親分かい?」
文蔵は目を輝かせながら聞いた。
「へい、凄え貫録です」
「そうだんべえなア。何しろ、ドサ(佐渡)帰(げえ)りだ、凄えぜ。おめえ、どうして、叔父御の子分になんなかったんでえ?」
「頼んだんだけど、駄目だったんです」
「どうしてでえ?」
「急ぎ旅だから子分は取らねえと‥‥‥」
「急ぎ旅か‥‥‥俺もやってみてえぜ」
文蔵は酒を飲み干すと口を拭いて、街道の方を眺めた。
「兄貴は親分の子分になって長えんですか?」
忠次は文蔵のお猪口(ちょこ)に酒を注いだ。
「俺アよお、十五の時、三下になってよ、十七ん時、子分になったのよ。まあ、二年てえとこだな。おめえより二年、古株ってわけよ。分かんねえ事があったら、何でも聞きねえ」
文蔵は酒をぐいぐい飲みながら、しゃべりまくった。酔うにつれて、喧嘩の自慢話を始め、おめえには負けねえぜと何度も言っていた。忠次は文蔵の話を聞いて、自分より一つ年上だという事と喧嘩ばかりしているので、兄貴たちから煙たがられているらしいという事を知った。
「こんなとこで飲んでてもつまんねえ。おい、木崎に繰り出そうぜ」
「賭場の方は大丈夫(でえじょぶ)なんですかい?」
「なあに、馴染みの旦那衆相手の賭場だ。わざわざ、旅の渡世人を誘い込む事もあるめえ。おめえ、銭は持ってるか?」
「持ってはいるけど、女遊びする程はねえですよ」
「気にすんねえ。ちょくら、一稼ぎしてから繰り出そうじゃねえか」
文蔵は酒を飲み干すと、
「御馳走さんよ」と言って、さっさと店の奥の方に向かった。
忠次は慌てて、文蔵の後を追い、裏口から外に出ると、
「勘定はいいんですかい?」と聞いた。
「あの姉さんは新五兄貴のこれよ」と小指を示した。
「お仙さんて言ってな、しょっちゅう世話になってんだ。酒が飲みたくなったら、ここに来りゃア好きなだけ飲めるのよ」
「そうなんですか」
忠次は親分と一緒にいた代貸の新五郎を思い出し、お仙のような別嬪(べっぴん)が惚れるのも無理はないと納得した。
文蔵は桑畑の中を突っ切って、平塚(ひらづか)へと向かう街道に出た。
「どこ行くんです? 方向が違いますぜ」
「一稼ぎすると言ったんべえ。黙ってついて来りゃいいんだ。おめえ、この辺りは誰のシマだか知ってるかい?」
「島村の親分ですかい?」
「そうだ。伊三郎の奴は銭の力と十手(じって)に物を言わせて、どんどん縄張りを広げていやがる。奴はうちの親分のシマまで狙ってんだぜ」
「境をですか?」
「そうさ。絹市の賭場は稼ぎになるからな。この間なんざ、十手をちらつかせながら、うちの親分に兄弟分にならねえかと持ち出しやがった。兄弟分になって境を乗っ取るってえ魂胆だぜ。親分ははっきりと断りなさった。だがよお、伊三郎の奴は諦めねえで、市の立つ日に子分たちを境に送り込んで、嫌がらせをしやがる。そいつらを追っ払うのが俺たちの仕事よ。おめえにも働いてもらうぜ」
「十手を持ってる島村の親分が賭場に踏み込んで来たらどうするんです?」
「伊三郎の奴もそこまではできねえ。博奕を打ってんのは堅気(かたぎ)の衆だ。賭場に踏み込みゃア、堅気の旦那衆に迷惑が掛かる。伊三郎の奴は堅気の衆の評判を異常なくれえに気にするんだ。堅気の衆から、いい親分さんだと呼ばれて喜んでるのよ」
「実際に、評判はいいんですか?」
「いいようだな。汚ねえ事は子分どもにやらせて、自分は関係ねえって面してるからな」
「へえ、島村の親分てえのはそういう男なんですか」
「世間の評判を本気にしちゃアいけねえ。二足の草鞋を履いてる奴は裏で汚ねえ事をしてるに決まってらア」
「そうなんですか?」
「当たり前(めえ)だろ。お上(かみ)が禁止してる博奕で食ってる野郎が、お上の手先を務めてるんだぜ。そんな筋の通らねえ事があるかい」
「へい、そうですね」
文蔵は街道からはずれて、こんもりとした森の方に向かった。森のそばまで来ると急に立ち止まり、耳を澄ませた。懐(ふところ)に手を入れると足音を忍ばせて、森の中に入って行った。
何をするつもりかと忠次もそおっと後に従ったが、森の中には小さな祠(ほこら)があるだけで何もなかった。
「いつも、ここで素人衆が博奕を打ってんだが、今日はいねえようだ」
「一稼ぎって博奕を打つんですか?」
「馬鹿め、トウシロ相手の博奕を打つためにわざわざこんなとこまで来るか。賭場荒らしをするのよ」
「えっ、賭場荒らし?」
「そうよ。伊三郎の子分を装ってな、銭を巻き上げるんだ。運がよけりゃア、二、三貫は稼げるぜ」
「いつも、やってんですか?」
「兄貴たちには内緒だぜ」
文蔵は早川のほとりで博奕を打っている素人衆を見つけ、島村の親分の許しを得て博奕を打ってるのかと脅し、銭を巻き上げた。運がよかったらしく、三貫近くの銭があった。
「兄貴、ちょっと聞きてえんだけど、懐に何か入(へえ)ってるんですかい?」
「これか?」と文蔵は笑いながら、懐から五寸釘のような手裏剣を出した。
「相手はトウシロだが、もしもの事があるからな」
「へえ、兄貴は手裏剣が得意なんですか?」
「俺んちは貧乏だからよ、剣術をやりたかったが道場にゃ通えなかったんだ。それで、自分で工夫しながら手裏剣打ちの稽古に励んだんさ」
文蔵はそう言うと手裏剣を投げた。
ヒュッという音を立てながら手裏剣は飛んで行き、五間程先の紅葉(もみじ)の枝に突き刺さった。
「凄え」と忠次は感心した。
「なあに、あんなの何でもねえ」
二人は木崎宿に飛んで行き、吉田屋という飯盛女のいる旅籠屋に上がった。文蔵は馴染みのおたねという娘を呼び、忠次の相手はお寅というあどけない顔をした娘だった。
忠次も何度か木崎に遊びに来た事があったが、吉田屋に上がったのは初めてだった。いつも、厚化粧にごまかされて、朝、起きるとガッカリしたものだったが、今日はいい相手に巡り会えたと喜んだ。二人は巻き上げた銭をすべて使って大騒ぎをし、翌日の昼頃、いい機嫌で百々村に帰った。
久次郎が心配顔で現れ、親分が怒っていると告げた。
二人は恐る恐る、親分の待つ部屋に行った。
「てめえら、どこをほっつき歩いてるんでえ」
代貸の助次郎が鬼のような顔をして怒鳴った。
「おい、文蔵、おめえ、また、島村のシマで悪さしてたんじゃあるめえな?」
「いえ、ちょっとスケんとこへ」
「ほう、いい身分じゃねえか。銭はどうしたんでえ?」
「忠次の奴が持ってたんで」
「おい、忠次、てめえは俺に挨拶もしねえで遊び歩いてるたア、いい度胸だ。人を殺(あや)めたくれえで調子に乗ってんじゃねえぞ」
「兄貴、忠次の奴を誘ったんは俺なんだ。忠次は勘弁してやってくれ」
「生意気(なめえき)言うんじゃねえ。さっさと親分に頭を下げねえか」
文蔵と忠次は親分に詫びた。
「まあ、そのくれえでいいだんべえ」
紋次が目を細めながら煙草の煙を吐いた。
「しかし、親分、文蔵の奴はいくら言っても聞きゃしねえ。放っておいたら示しがつかねえですぜ」
「若えうちは時には羽目をはずしたくなるもんさ。今日はこのくれえでいい。ところで、忠次、おめえは誰かに命を狙われてんのか?」
「よくは知りませんけど、久宮一家に俺が殺(や)った奴の兄弟分がいるとか、国定で聞きましたけど」
「やはりな。昨日、伊三郎の子分が隠れながら、おめえの事を捜し回っていやがった。おめえが俺んとこにいるかどうか確かめに来たに違えねえ。幸いと言っちゃア何だが、おめえが賭場に顔を出さなかったんで、馴染みの旦那衆に顔見せをしなくて済んだ。おめえが俺の身内になった事を知ってる奴はまだいねえ。おめえ、このまま、旅に出てくんねえか」
「えっ、また隠れるんですか?」
忠次は驚いて顔を上げると、紋次と助次郎を見た。
紋次は渋い顔をして煙草の煙を吐き、助次郎は憎らしそうに忠次を睨んでいた。
「そうだ」と紋次は煙管(きせる)の雁首(がんくび)で長火鉢をたたいた。
吸い殻が長火鉢の中にポトリと落ちた。
「しかし、久宮一家とはもう話がついてんじゃありませんか?」
「久宮一家とは話がついてる。だが、久宮一家にいる、その兄弟分が仇(かたき)を討つと言い出したら話は別になる。おめえが俺の身内だと分かったら、久宮一家はそいつの助っ人と称して、果たし状を送って来るに違えねえ」
「おもしれえ、受けて立とうじゃねえか」
文蔵が身を乗り出した。
「馬鹿野郎、そんな事をすりゃア相手の思う壷だ。いいか、久宮一家と島村一家はつながってんだぜ」
「親分同士が兄弟分なんですか?」と忠次は聞いた。
「そうじゃねえ」と助次郎が不機嫌そうに言った。
「久宮の先代の親分と木崎の親分が兄弟分だったんだ。そして、木崎の親分と島村の親分も兄弟分だ。その関係で、久宮一家と島村一家はつながってんだ」
「久宮一家とすりゃア」と紋次が煙管を手の平でたたきながら言った。
「大前田一家に食われねえためには伊三郎を後ろ盾にするしかなかったのよ。そこで今度の話だがな、文蔵、おめえの言う通り、久宮一家と出入りになったらどうなると思う?」
「そりゃア、久宮の奴らなんか片っ端からたたっ斬ってやるぜ、なあ、忠次よ」
「残念だが、そうはならねえ。木崎の親分が仲裁に入る。伊三郎の奴も来るに違えねえ。木崎の親分に出て来られたら手を打つしかあるめえ。手打ちとなりゃア、仲裁人にそれ相当のお礼をしなくちゃなんねんだ。伊三郎の狙いはそこよ。おめえに分かるか?」
「もしかしたら、伊三郎の奴は境のシマの一部をよこせって言うんじゃねえんですかい」
「その通りよ。勿論、伊三郎本人は何も言わねえ。木崎の親分にそう言わせるに違えねえ。仲裁人にそう言われちゃア、俺としても断る事はできねえんだ」
「野郎、汚ねえやり方を考えやがって‥‥‥」
「伊三郎の目的は境を手に入れる事だ。奴は目的のためには手段は選ばねえ。ちょっとした弱みを見せれば、すぐに付け込んで来やがる。いいか、おめえも奴の子分とつまらねえ喧嘩なんかするんじゃねえぞ」
「親分、文蔵の奴も忠次と一緒に旅に出したらどうだんべえ?」
助次郎が二人を睨んでから、紋次を見た。
「そうだな、おめえは去年、左太郎と一緒に旅に出たっけな。おう、おめえら、二人でしばらく修行の旅に行って来い」
「へい」
文蔵は忠次と顔を見合わせるとニヤリと笑った。