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武州(ぶしゅう)の川越街道に面した藤久保村に獅子(しし)ケ嶽(たけ)の重五郎という力士上がりの親分がいた。
将軍様の上覧相撲に参加して勝ち星を上げた事もある有名な力士で、表向きは木賃宿(きちんやど)をやりながら、若い者たちに相撲を教え、裏では川越一帯を仕切っている博奕打ちだった。その重五郎親分のもとに、佐渡島(さどがしま)を島抜けした大前田村の栄五郎が隠れていた。
忠次は玉村宿の佐重郎の紹介状を持って、藤久保にいる栄五郎を訪ねた。
「ほとぼりが冷めるまで上州から離れていた方がいい。こっちの事は任せときな」と佐重郎は忠次を栄五郎のもとに送ったのだった。
忠次も栄五郎の噂は色々と聞いていて、一度、会ってみたいと思っていた。しかし、博奕打ちになる気はなく、しばらく、隠れてから国定村に戻って、以前のように剣術の修行に励むつもりでいた。
栄五郎は貫録のある大柄の男で、佐重郎からの紹介状を読むと、
「おめえさん、人を殺して逃げて来たのか?」とドスのきいた声で聞いた。
忠次はうなづき、
「仕方なかったんです」と答えた。
栄五郎は強い視線で忠次を眺め、
「渡世人(とせえにん)になりてえのか?」と聞いた。
忠次は首を振った。
「玉村の親分の手紙によると、おめえんちは国定村で名主をやった事もある家柄じゃねえか。何でまた無宿者なんか殺したんだ?」
「そいつは隣村の名主さんに難癖をつけて来たんです。何とかやめさせようとしたんですけど」
「斬っちまったのか?」
「殺すつもりはなかったけど、気が付いたら、相手は死んでたんです」
栄五郎は軽くうなづくと手紙をたたんだ。
「無宿者は久宮(くぐう)一家の客人だったらしいな。俺が話を付けてやりてえとこだが、相手が悪(わり)い。久宮の豊吉は俺を仇(かたき)だと狙ってるからな。玉村の親分がうまくやってくれるだんべえ。ほとぼりが冷めるまで、ここにいるがいい。だがな、決して、渡世人なんかになろうと思うなよ。ほとぼりが冷めたら国定村に帰(けえ)って、堅気(かたぎ)な暮らしに戻るんだぜ」
「はい。剣術の修行を積んで道場を開きます」
煙管(きせる)に煙草を詰めていた栄五郎は顔を上げると改めて、忠次を見た。
「ほう。おめえ、剣術をやってんのか?」
「はい。本間道場に通ってました」
「成程な。本間道場なら本物(ほんもん)だ。おめえの腕もまんざらでもなさそうだな。俺も若え頃、浅山一伝流を習ってた。剣術を習えば、誰でも刀を抜きたくなる。俺も人を殺(あや)めちまった。今思えば、馬鹿な事をしちまったと後悔している。おめえもこれに懲(こ)りて、二度と人様を斬るんじゃねえぞ」
「はい‥‥‥」
忠次は栄五郎の連れという事で重五郎の木賃宿に滞在しながら、木賃宿をやっている重五郎の妻、お園(その)の手伝いをしていた。
お園はほっそりとした美人で、みんなから姐(あね)さんと呼ばれていた。優しい顔をしていながら気の強い女で、重五郎の子分たちを顎(あご)で使っていた。
「おまえさんも栄五郎親分の盃(さかずき)が欲しくてやって来たのかい?」
姉さんかぶりのお園がお勝手から出て来て聞いた。
「いえ、違います」と忠次は裏庭で薪(まき)割りをしながら答えた。
「おや、違うのかい。上州から若い者(もん)が栄五郎親分の盃が欲しくて大勢やって来るけど、おまえさんは違うのかい。変わってるねえ」
「ほとぼりが冷めるまで隠れてるだけです」
「人を殺したんだってねえ。なかなか、度胸があるんだねえ」
「いえ‥‥‥」
忠次は手を止めて、顔の汗を拭きながら、お園を見た。
お園は笑みをたたえながら、忠次を見ていた。
「栄五郎親分は男ん中の男だよ。親分のそばにいて、盃を貰わないって手はないよ」
「そんなに凄え人なんですか?」
「凄い人だとも」とお園は力強くうなづいた。
「顔が広くってね、あちこちの大親分さんを知ってるんだよ。佐渡島に送られて、島抜けして来たなんて大したお人だよ。栄五郎親分から盃を貰って上州に帰ってごらんな。おまえさんは人を殺した事で男を上げたんだ。さらに、親分から盃を貰えば、立派に一家を張る事ができるんだよ」
「えっ、俺が一家を張るんですか?」
「そうさ。一度、人を殺しちまったら、もう堅気にゃ戻れないよ。博奕渡世で生きて行くしかないんだよ。そうなりゃ一生、人の子分でいるよりゃア、一家を張って親分になった方がいいだろうさ」
「はい‥‥‥」
「うちの人だって川越のお殿様のお気に入りの力士だったんだけどね、力士なんて若いうちだけだよ。強い時はちやほやされるけど、落ち目になったら惨めなもんさ。一度、ちやほやされた者が堅気になんか戻れやしないよ。大抵の者が博奕打ちになるんだけどね、うまく行く奴なんて少ないんだよ。うちの人は栄五郎親分に贔屓(ひいき)にされてね、弟分にしてもらったんだよ。お陰様で、こうして一家を張って、この渡世で生きてられるのさ。島抜けしてすぐに、うちの人を頼って来てくれるなんて嬉しいじゃないか。うちの人は栄五郎親分のためなら命はいらないっていう程の惚れ込みようだよ」
「そうなんですか‥‥‥あのう、一度、人を殺したら堅気に戻れないって本当ですか?」
「なに、おまえさん、堅気に戻るつもりなのかい?」
忠次は自信なさそうにうなづいた。
「甘いね。世間の目はそんなに甘かアないよ。おまえさんがどんなに真面目に生きても、人殺しっていう凶状(きょうじょう)は決して消えやしないんだ。おまえさんが人を殺したってえ事は、もう村中の者が知ってるんだよ。ほとぼりが冷めて、おまえさんが帰ったとしても、人殺しって陰口をたたかれるに決まってる。ちょっとしたヘマでもしてご覧な、あいつは人殺しだって、必ず言われるんだよ。そんな辛い思いをして堅気でいるより、あたしゃ、博奕打ちの渡世で生きた方がいいと思うがね」
確かにその通りだと忠次は思った。お園の言う通り、今頃、国定村と田部井(ためがい)村では忠次が人を殺したという事は噂になっているに違いなかった。決して、今まで通りの生活に戻れる事はないのだ。忠次は考えを変えなければならないと考え始めた。
栄五郎はここでは勝五郎と名乗り、重五郎の木賃宿の近くの家で、お類という女と一緒に暮らしていた。重五郎の興行する相撲を見に行ったり、時々、賭場に挨拶に顔を出す程度で、後は若い者相手に相撲の稽古(けいこ)を付けたり、剣術の稽古を付けたりしていた。
忠次も一度、剣術の稽古をして貰ったが、とてもかなわない程、栄五郎は強かった。忠次が習って来た道場の剣術と違って、栄五郎の剣術はより実践的だった。栄五郎のそばにいて、忠次はだんだんと栄五郎の任侠気(おとこぎ)に惚れ、栄五郎のような立派な親分になりたいと思うようになって行った。
藤久保に来て一ケ月が過ぎた。
お園から博奕打ちの事を色々と聞き、また、一緒に雑用をやっている栄五郎の三下奴(さんしたやっこ)、大胡(おおご)の団兵衛からも話を聞いた。色々と考えた末、忠次は栄五郎に子分にしてくれと頼んだ。しかし、栄五郎は首を縦には振らなかった。
「まだ、おめえには知らせてなかったが、玉村の親分より手紙が来た。田部井村の名主さんと本間道場の先生が久宮一家と話を付けたそうだ。玉村の親分は八州様の御用聞きをやってる島村の親分や木崎の親分に話を付けてくれた。八州様の手前もあるから、すぐに戻る事はできねえが、年が明けて夏頃になったら戻れるだんべえとの事だ」
「来年の夏ですか‥‥‥」
忠次は少し不満そうな顔をした。
「おめえはよく分かってねえようだな。人様を殺すってえ事は大変(てえへん)な事なんだぜ。普通ならお役人に捕まり、江戸送りとなって牢屋(ろうや)に入れられるんだ。牢屋ん中にも牢名主様ってえのがいてな、新入りは痛え目に会うんだぜ。それだけじゃねえ、お役人の辛(つれ)え拷問(ごうもん)を受け、その拷問で死ぬ事もある。拷問に耐えたからってシャバに出られるわけじゃねえ。軽くて島送り、運が悪けりゃ獄門(ごくもん)だ。それを御咎(おとが)めもなしに帰(けえ)れるんだぜ。おめえは運がいいんだ。もし、おめえが水呑み百姓の伜(せがれ)だったら、間違(まちげ)えなく捕まってたぜ。今頃は首をはねられてたかもしれねえ。手紙には書いてねえが、おめえのお袋さんはおめえのために莫大(ばくでえ)な銭を使ってるに違えねえ。そこんとこをよく考(かんげ)えるんだな。おめえを博奕打ちにしたくて銭を使ったんじゃねえんだぜ。田部井村の名主さんにしたって、本間道場の先生にしたって、おめえを堅気に戻してえから、おめえのために苦労してんだ。若え時の過ちは取り返(けえ)す事ができるんだよ。早まった考えをしちゃアいけねえ。みんなのためにも、博奕打ちになろうなんて考えるんじゃアねえよ」
忠次の瞼(まぶた)に母親とお鶴が苦労している姿が浮かんだ。今まで自分の事しか考えなかったが、人殺しの母親とか、人殺しの女房とか言われているのだろうかと心配になった。もし、村八分にでもされていたら、村の奴らは許しちゃア置かねえと強く拳(こぶし)を握り締めた。
栄五郎には断られたが、忠次は諦めなかった。重五郎に子分にしてくれと頼んだ。
「おめえは兄貴の客人だ。俺の一存で決めるわけにはいかねえ。兄貴が許してくれたんかい?」
「いいえ。堅気に戻れと‥‥‥」
「そうだんべえ。おめえの事は俺も聞いてる。若えわりには度胸もあるし腕も立つ。子分衆に加えてえとこだが、兄貴の手前、そうもいかねえんだ。兄貴から許しを貰ってから来るんだな」
「‥‥‥」
「おめえはな、兄貴の若え頃によく似てるぜ。兄貴のうちもおめえと同じように名主をやった事のある家柄だ。十五ん時、三下奴を殺して、初めての国越えをしたんだ。そん時ゃア一年位(くれえ)で故郷(くに)に帰れたんだが、二十五ん時、上州でも有名だった久宮の親分を殺しちまった。もう十年も前(めえ)の話だぜ。なのによお、兄貴は未だに故郷に戻れねえんだ。あっちこっちさまよい歩いて男を売って来たが、故郷に戻れねえ程、つれえ事はねえんだぜ。兄貴はな、おめえを自分のようにはしたくねえと思っておいでなんだ。もうちっと我慢して、故郷に帰れたら真っ当な暮らしをする事だ」
重五郎に断られても忠次は諦めなかった。重五郎の三下奴たちと一緒に勝手に修行を始めた。三下奴たちは忠次が三下修行をするのを見て驚いた。人を殺して上州から逃げて来たという噂を聞いて、栄五郎の実の兄で大前田一家の親分、要吉の身内だと勝手に勘違いしていた。忠次が本当の事を言っても、栄五郎に可愛がられているのだから、ただ者ではないと一目(いちもく)置かれた。栄五郎に怒られるだろうと思ったが何も言っては来なかった。しばらくして、重五郎に呼ばれ、
「おめえの事を俺が預かる事になったぜ」と言われた。
「俺を子分にしてくれるんですか?」
忠次は目を輝かせた。
「子分じゃねえ、三下奴だ。子分になる前(めえ)に一年から二年は三下の修行を積まなければなんねえ。生易しい修行じゃねえぜ。おめえがどうしても渡世人になりてえなら、その修行に耐えなけりゃなんねえ。俺が預かったからには、今までのように特別扱いはしねえぜ。三下ん中でも一番の下っ端だ。それでもいいなら、修行をさせてやる、どうだ?」
「はい、お願いします」
「よし、そうと決まったからにゃア、兄貴にちゃんと挨拶して木賃宿を払って来い」
忠次の三下修行が始まった。
重五郎の家の裏にある狭い部屋に押し込まれ、五人の三下たちと雑魚(ざこ)寝をして、寒い中を朝早くから夜遅くまで、重五郎の子分たちにこき使われた。確かに、重五郎が言ったように、それは厳しい修行だった。
三下奴は博奕打ちの世界では人間として扱われなかった。飯だけは食わせて貰えるが、賭場(とば)のテラ銭の分配には預かれず、銭がないので遊ぶ事も酒を飲む事もできなかった。忠次のように、今まで銭に困った事のない者には余計に辛かった。しかし、他の三下たちが子分になるために必死になって耐えているのに、今更、弱音を吐いてやめる事は忠次の性格からできなかった。
重五郎の子分で川越の万吉というのがいた。重五郎の妻、お園の弟であるため、子分の中でもやたら威張って三下をいじめていた。
「おい、三下、人を殺したからってなア、いい気になってんじゃねえぜ。一人前(めえ)の渡世人になるにゃア厳しい修行を積まなけりゃなんねんだ」
万吉は忠次を目の敵(かたき)のように辛く当たったが、忠次は歯を食いしばって、じっと我慢した。
三下同士でも上下関係があり、大井村の権太という三下が忠次のすぐ上にいた。権太は忠次より一つ年下の十六歳で、三下になって三ケ月だという。権太から色々な事を教わり、博奕打ちのしきたりとか、賭場を開く時の下準備とかを忠次は身を持って覚えて行った。
年が明けて、文政十年になった。
あちこちから旦那衆や親分衆が新年の挨拶に訪れ、重五郎の家は賑やかだった。その中に高萩村の万次郎という、やたら背の高い男がいた。
万次郎は博奕が好きで、重五郎の賭場に出入りし、勝負の潔(いさぎよ)さと度胸を買われて重五郎の弟分になったという男だった。まだ二十三歳の若さだったが、親分気取りで子分を引き連れてやって来た。あんなに若い親分もいるのかと忠次は憧れの思いで眺めていた。
万次郎を木賃宿に案内した後、忠次はお園から呼ばれた。万次郎が呼んでいるという。
「おまえさん、何か粗相(そそう)でもしたのかい?」
お園が心配顔で忠次を見た。
「怒ってるんですか?」
「そうは見えないけどね。ああ見えても、怒らせると手が付けられないから気を付けるんだよ」
忠次が恐る恐る万次郎の部屋に行くと、万次郎はやけに長い煙管をくわえながら、機嫌よく忠次を迎えた。
「まあ、入(へえ)れや。おめえの噂は聞いたぜ。いつまでも三下なんかやってる柄(がら)じゃあるめえ」
忠次は何と答えていいか分からず、部屋の片隅にかしこまっていた。
「俺が見たとこ、おめえは人様の子分で我慢できるような玉じゃねえな」
確かに万次郎の言う通りだった。重五郎の下で三下修行をしているのは栄五郎の弟分である重五郎の盃を貰い、故郷に帰った時、箔(はく)を付けるためだった。子分になって、いつまでもここに留まるつもりはない。できれば、栄五郎からも盃を貰うつもりでいた。
「どうでえ、俺んとこに来ねえか? 客分として待遇するぜ」
忠次は自分の耳を疑った。
三下から急に客分として迎えられるなんて信じられない事だった。からかっているのかと思ったが、万次郎も子分衆も真面目な顔付きで忠次を見ていた。
「そいつはありがてえ事ですが、一体(いってえ)、どういうわけなんですか?」
「実はな、おめえの腕を見込んで、頼みてえ事があるんだ。いや、おめえに誰かを殺(や)ってくれってんじゃねえ。若え者たちに剣術を教えてやって欲しいんだ。高萩にゃア剣術道場がねえ、川越まで出りゃあるんだが遠すぎる。浪人者を雇ってもいいが、高え銭を要求するわりには腕の確かな奴は少ねえんだ。どうでえ、やってみちゃアくれねえかい?」
「俺みてえな若え者でよけりゃア、喜んで引き受けますが」
「なあに、俺んとこの子分はみんな若え。実際(じっせえ)のとこ、駆け出し者ばかりよ。だがよお、十年先には武州一の親分になってやるぜ」
忠次は藤久保村から高萩村に移った。
万次郎の家は広い敷地を持ち、大きな母屋(おもや)の裏に蔵がいくつも並んでいた。万次郎はその広い敷地の片隅に家を持ち、一家を張っていた。その家で賭場を開いているという。
重五郎の所にいた時とは違って、万次郎の所には偉そうな顔をした子分もいないし、皆、和気あいあいとしていて楽しかった。栄五郎に簡単にあしらわれてから、剣術の腕に自信をなくしていたが、万次郎の子分たちには充分に通用する事が分かって嬉しかった。万次郎も思っていたよりも腕が立つと喜んでくれた。
忠次は万次郎と四分六の兄弟分の盃を交わし、弟分になった。
「これで、俺たちア兄弟分(きょうでえぶん)だ。兄弟の間に遠慮はいらねえ。好きなだけ、ここにいるがいいぜ」
「すまねえ、兄貴」
「なあに、おめえの度胸を認めたのよ。叔父御が目を掛けてるくれえだ、おめえは立派な親分になるぜ。上州に一家を張ったら、そん時ゃア遊び行くからよ」
「はい、是非、来て下さい。あの、叔父御って誰ですか?」
「栄五郎の親分さんよ。重五郎親分は俺の兄貴分だ。栄五郎の親分さんは兄貴の兄貴分なんだが、とても、兄貴とか兄さんとは呼べねえ。それで、叔父御って呼んでるのよ」
「叔父御ですか‥‥‥栄五郎の親分さんは俺の事を何か言ってました?」
「叔父御は何も言わねえ。だがな、おめえの事を気に掛けてる事は分かるぜ。叔父御の噂を聞いて盃を貰いに来る奴ア多いが、叔父御はみんな追い返してるんだ。三下奴にもしねえ」
「俺も断られました」
「たとえ断られても、三ケ月近くもそばにいりゃア、回りの者は子分になったと思うもんだぜ。とにかく、兄弟分になったんだ。頑張ってくれなきゃ困るぜ。俺は武州をものにするからよお、上州の事はおめえに任せたぜ」
万次郎の弟分になった事により、忠次はすっかり渡世人になった気分でいた。剣術の道場主になる事などすっかり忘れ、上州に帰ったら、必ず、親分になってやると思い、万次郎のやる事なす事、すべてを手本にするため、常にそばにいた。特に万次郎が子分たちに自分の事を親分と呼ばせずに、旦那と呼ばせているのは忠次も気に入り、一家を張ったら、真似しようと密かに思っていた。
万次郎の子分とも仲良くなり、居心地がいいので月日の経つのは早かった。
いつしか、桜の花も散り、暑い夏も去り、樹木が色づき始めた頃、栄五郎が高萩にやって来た。挨拶の後、忠次は改めて栄五郎に呼ばれた。
「おめえ、本気で博奕打ちになるつもりなのかい?」
栄五郎は忠次の格好を眺めながら聞いた。
すっかり、遊び人の格好が板に付いていた。
忠次は栄五郎の強い視線から目をそらさずにうなづいた。
「どうしょうもねえ野郎だな、おめえも。もっとも、俺も人の事をとやかく言えた義理じゃねえがな」
栄五郎は苦笑した。
「親分、俺を子分にしてくだせえ」
「いや、俺は旅の途中だ。子分を持つつもりはねえ。大前田一家の盃が欲しかったら、兄貴んとこに行く事だ。だがな、三下奴からやり直しだぞ。万次の兄弟分が三下奴をやるわけにも行くめえ」
「へい、そんな事をしたら、兄貴に恥をかかせる事になります」
「うむ。とりあえず、国定村に帰って、よく考える事だ」
「えっ、帰れるんですか?」
「ああ。玉村の親分からの知らせが届いた。すべてはうまく行き、いつ、戻って来ても大丈夫だそうだ」
「本当ですか?」
栄五郎はうなづいた。
「おめえが国越えしてから、ようやく一年だ。こんなにも早く帰れるなんて驚きだぜ。玉村の親分の話によるとおめえの親父さんは徳のあったお人だったらしいな。親父さんのお陰で、みんながおめえの事を必死になって助けたんだ。親父さんに感謝して、もう一度、将来の事をよーく考えろ」
「へい‥‥‥」
栄五郎は忠次の顔色を見て笑った。
「もう、堅気にゃア戻れねえようだな。境宿(さかいじゅく)の隣りに百々(どうどう)村ってえのがあるんだが知ってるかい?」
「へい、知ってますが‥‥‥」
「そこで俺の兄弟分で紋次ってえのが一家を張っている」
「噂は聞いてます」
「そうか。奴とは若え頃、一緒に旅をした事があってな、なかなか、いい奴だ。親分としての貫録も出で来たしな。どうだ、そこで修行してみるか?」
「親分の兄弟分なんですか?」
「そうだ。俺が紹介状を書いてやる。三下修行なしで子分になれるようにな。そっから先はおめえの腕次第(しでえ)だ。万次に恥をかかせねえようにする事だな」
「はい、ありがとうございます」
忠次は世話になった万次郎たちに別れを告げ、一年振りに故郷に向かった。
赤城山の姿が懐かしかった。
冷たいからっ風が顔を刺したが、忠次の心の中は希望で燃えていた。